「被担保債権と留置物との間に牽連性はない」

そういった意味で、漱石とは、悪く言えばい「いっちょ噛み」な人物であるが、良く言えば、経緯的(☟)な文学観を以て文学を企図した人物であり、そのような具体化を施すことが小説であると喝破した人物であると思う。

草枕』は或る意味で、このエッセイである。試行錯誤自体を取り上げたものだ。
「できそこない」という意味ではない。「錯誤」の試行過程のことである。
ただ、冒頭文を読んで、風流なことを言っているという感想では、理解が追い付いていないだけである。

☞アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「プロセス」と比較できる。

プロセス哲学

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%82%B9%E5%93%B2%E5%AD%A6

 

そもそも、一般には、「カント・プログラム」がこの世に存在することが知られていないように見える(知らない)。
ヒルベルト・プログラム」が比較的に有名なのは、ヒルベルトが時代を画したまさに天才だったからでもあるし、その彼が挑発的だったので多くの数学者の興味を引いたからだろうし、その愛弟子の高木貞治が数学史に刻まれる優れた業績を残したからでもあるし、その高木が日本人だからでもあるだろうと思う。弟子も居ただろう。

カントはどうも、その意味で本当に天才だったのかが、疑わしいのである。少なくともマルクスはかつて言われたような天才ではない。そのマルクス自身と比較してもどうなのか。この「自身」とはフォロワーを排除してのものである。或いは、空海は天才であるが、最澄は、と云うと、ピンとくるものがあるかもしれない。最澄も優れた人物であったが。弟子が多い。
フォン・ノイマンがカントを批判できる人物であることに疑いはない。
フォン・ノイマンは『数学者』で「カント・プログラム」を批判して、本論で『作用素環について』を書いた※。

数学者が、或いは「理系」が、云々ということではない。
カントは本論を欠くのだ☟。
そして、基本的に、長いデカルト批判の系譜の締めくくりである。

※正確には、順序が反対で、『数学者』についての講演が1946年であり、『作用素環について』は4本の論文から成り、順次、RO(1936年)ROⅡ(1937年)ROⅢ(1940年)ROⅣ(1943年)と掲載された。ROへと続くその前段の論文にN1(1929年)があった。
つまり、各論文が先なのだが、「あとがき」のようなことで、新しい数学を開発した当時のノイマンの意気込みが伝わるということである。この文庫本(『作用素環の数理』)では、『数学者』を先に載せている。

 

☞検討

それとも、『永久平和のために』或いは「気象学」が、カントにとっての本論だっただろうか?
そういった意味で、彼の「批判」は、奇妙な哲学である。
なんでも言っているようで、何にも言えていないからであり、発想法に留まるのだろうか。(カントを含めて)カント以降の哲学は本当に哲学だったのだろうか。
確かに、帰納法に革新をもたらした実績が、ある。それを具体化したのは、法学か科学か。法学への貢献が大きいだろう。
そう考えると、ヴィトゲンシュタインは変な哲学者だが、「哲学を完成した」と自負しただけの理由はある。ポアンカレと基本的なアイデアが同じような気もするが、ライプニッツのドイツ系の伝統を着実に受け継いで、「哲学した」と言える。エッセイで終わらせることがなかった。

簡単に言うと、法学がまだグランドセオリーを担っていた時代に輝かしい人物だったのがカントだったのであり、夏目漱石で言えば、『坊ちゃん』の頃、すなわち、物理学校が「二流校」だったころの話である。


『オセロ』と同時期に書かれた『ヴェニスの商人』がある。

どうも奇妙なのだ。

ヴェニスの商人」とはシャイロックのことではない。
それでもシャイロックがあまりに有名である。
あまりに有名であるのに、奇妙なのだ。

彼は、今日から見れば、「契約書」に機械的に忠実であるよう見えて、本当にそうであるだろうか?と疑問に思えるのである。
理由は明白かつ単純で、それはシャイロックの義務に思われないからだ

彼は契約を交わしたのだが、どういう内容の契約だったかに関心が寄せられるが、どういう種類の契約だったかには、あまり関心が払われない。
つまり、良く知らないのだが、契約を原因とする引き渡し義務はシャイロックになく、それに牽連して義務に付随する費用を負担する義務が発生しないのではないかと思えるのだ。つまり、「血」という「費用」は、「肉」に付随する「必要経費」であって、債務に付随するのであるから、シャイロックが負担するものではない。

世界一大きなダイヤの原石なら原石に意味があるかもしれないが、どこ掘ればよいかわからない広大な金鉱に取引に応じる意味がどれほどあるだろうか。「掘って、持ってこい」という権利がある。

留置権の牽連性とは?事例や要件を分かりやすく解説【判例あり】 | MITSUNOSEKAI

商人間の留置権

「被担保債権と留置物との間に牽連性はない」

https://gyosyo.info/%E5%95%86%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E7%95%99%E7%BD%AE%E6%A8%A9%EF%BC%88%E7%89%BD%E9%80%A3%E6%80%A7%EF%BC%9A%E3%81%91%E3%82%93%E3%82%8C%E3%82%93%E3%81%9B%E3%81%84%EF%BC%89/

同時履行の抗弁権

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%99%82%E5%B1%A5%E8%A1%8C%E3%81%AE%E6%8A%97%E5%BC%81%E6%A8%A9

競売の費用は債務者が負担?費用の目安はどれくらい?

不動産の競売費用は、最終的に住宅ローンを借入れた人(債務者)が負担します。

https://www.fudosan-entetsu.jp/osumubi/sell/1101/#:~:text=%E4%B8%8D%E5%8B%95%E7%94%A3%E3%81%AE%E7%AB%B6%E5%A3%B2%E8%B2%BB%E7%94%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%9A%84%E3%81%AB%E4%BD%8F%E5%AE%85%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%92%E5%80%9F%E5%85%A5%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%BA%EF%BC%88%E5%82%B5%E5%8B%99%E8%80%85%EF%BC%89%E3%81%8C%E8%B2%A0%E6%8B%85%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

第18回:“ヴェニスの商人”における法(その2)

第17回:“ヴェニスの商人”における法(その1)

したがって、『ヴェニスの商人』のテーマは、「立法」であって、「司法」ではない。
すなわち、人道主義的なキリスト教による、契約書の内容を超える立法事実の適示であって(「付随」から「随伴」に転換して、「危険負担」として立法事実化した。)、シャイロックが(人道的に言えば、もちろん、酷いのであるが)酷い商人というわけでもない。敢えて言うなら、古い時代の商人であるということである。

担保権の「付従性」「随伴性」「不可分性」「物上代位性」

https://info.yoneyamatalk.biz/%E6%B0%91%E6%B3%95/%E6%8B%85%E4%BF%9D%E6%A8%A9%E3%81%AE%E4%BB%98%E5%BE%93%E6%80%A7%E3%80%81%E9%9A%8F%E4%BC%B4%E6%80%A7%E3%80%81%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E5%88%86%E6%80%A7%E3%80%81%E7%89%A9%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E4%BD%8D%E6%80%A7/


つまり、マグリブ商人の可能性を言っている。だとすれば、単純なユダヤ人差別はない可能性がある。同時期の『オセロ』と背景が同じなのだが、焦点は異なるかもしれない。この時代、多くのことが、動いていたからだ。『オセロ』への『イーリアス』のようなものが『ヴェニスの商人』にあるかどうかである。

ここで疑問に感じるのは、キリスト教はそんなに人道的だっただろうか?ということである。

  1. 当時にあって、類似の裁判例が見つかる
  2. キリスト教神学の訓話の中で、類似の話が見つかる(大岡政談)

    大岡政談とは - コトバンク

    大昔に聞いたある童話(?)を探しています。 | 生活・身近な話題 | 発言小町

  3. ユダヤ教神学の訓話の中で、類似の話が見つかる(タルムード、トーラー)
  4. イスラム教の神学の訓話の中で、類似の話がみつかる。

chabadjapan.org

なぜ、「ヴェニスの商人」に対抗する「フィレンツェの商人」と言わなかったのだろうか?ということである(つまり、「ヴェニス」と「ユダヤ人」では対比になっていないのだ。ユダヤ人は、どこにでも居ただろうからである)。これはイアーゴーにも通じる。フィレンツェから来たのは、キャシオーである。

 

フランス法

コモン・ロー(イギリス)の成立

或いは、「人道的観点」ではなく「正義の観点」だろうか。

すなわち、「契約書に縛られない意義」とは、「肉」の代価がXポンドとして、Xを任意に設定できるが、正義に適うものでなければならないとき、もっとも大きな金額を設定できるなら(したがって、事実上の不可能な債権である。)、それに付随する「血」の費用で牽連させてよいとすると、Xポンドの代金が(不可能な債務として)返ってくるようなイメージだろうか。
ダイヤを同じ大きさの飴ちゃんの値段で買ったけれど、それはおかしい、その契約は有効として、商品としての「ダイヤ」には指輪も込みだから、指輪の値段で総合的に商品価値に見あうように弁済しないさい、という命令のようである。
そういう裁判がまったくないかと言えば、そういうこともない。

「契約書に縛られるべき」ならば、「血」の代価までシャイロックが負担すること(で、相手方に「血」の負担をさせない取引)をシャイロックが認めるのはおかしいし、「契約書に縛られるべきではない(縛られなくてよい)」ならば、(上図の意味で)人道的観点ではない※

※ここで、「契約書に縛られなくてよい」場合で「人道的な場合」を考えることは排除されている。すなわち、契約することの意義のもとに、契約の意味を考えているからである。「契約自体」が無効となっていない中での話である。契約の上に人道があるから、法は人道に従うべき、と考えているのではなく、契約が独立に成立するとき、契約の中の正義の実現を考えているのである。簡単に定式化すると、「法が在る」(すなわち、法の意義)と「契約が在る」(契約の意義)が同義であるということであり、法が価値の具現であるということである。今なら人権と言えるが、そうではなく、(人権を考えずして、)契約自体に崇高な価値を胚胎させる方法である(反対から言うと、契約書自体が「神聖」だったこともあったのだとしたら、このときは、もはやそうではなく、契約自体が「神聖」となったということである。そして、そのときの、「立法者が誰か」という問題である—「立法者が誰か」は、或いは、地味な問題に思えるかもしれないが、法制度史上は本質的な問題である。すなわち、神なのか、裁判官なのか、それらは同じとみなされるのか)。

なぜ、拘るかと云うと、例えば、土地の売買ではよく聴く話だからだ、
すなわち、「契約書」或いは「広告」を信頼して、「良地」を購入したところ、荒地或いは涸れ地であり、追加(契約書外の)負担が大きすぎる、或いは、そもそも利用に適さない、といったことだ。

これを「人道的」というときの、「正義」からの疑問である(或いは、その反対である。すなわち、「人道」と「正義」が矛盾しているのである)。

この「代価」には「土地交換」も含まれるからだ。


抵当権で考えるべきか、(物件ではなく、債権として)「同時履行(の抗弁権)」で考えればよいのか。

抵当権と根抵当権

https://www.rakumachi.jp/news/practical/291851

不動産の「抵当権」とは?

https://www.sbi-efinance.co.jp/contents/lien_of_mortgage/

不動産売却に必要な費用一覧

https://sumai-step.com/column/article/2287/