格差の拡大

 

「単語としては自立できない言葉は平仮名で」表記するのが原則であるが、「かなりアバウトな表現」であり、「実際にこのあたりは文法的に難しい」。どちらが文法的に正しいと論理的に決まることではなく、要は、ただの美学である。
より本質的には、14ページの方で、日本語表記には3種類ある、という事実である。

「公文書」と言っているが、法令も含まれる。
そのとき、集合論に従う、と謂っている。

問題は、その「集合」が、「どの集合(論)なのか」ということである。

わかりやすいのは、税で、「接続詞」と「ベン図」を使うとわかりやすい。そういう性質を持った「集合」のことです。

ところが、高校生の一部はすでに、このレベルです。大学数学に片足つっこんでいる(厳密な理解はさておき、方法として)。おそらく、SSHなどを通じて、高大接続が進んだ結果、このような架橋的な出題も許容されていると思うのですが、私のような数十年前に高校を卒業した者からすると、それが「良問」と呼べるのか「難問」と呼べるのか、判断ができません。


左は『論理と集合』(平成21年:2009年)のまえがき、右は『論理の練習帳』(平成14年:2002年)のまえがき。

高校生ではない私たちが直面している問題は、

新しい法的事実、例えば、LGBTQのトイレ、更衣室であったり、或いは、保護動物であり害獣でもある熊の駆除に関して、決定が難しいということです。

今までのような「集合」では説明能力が不足したまま、法曹がそれを意識せずに確定してしまうことが懸念される同時に、なんとなく「おかしさ」に気づいている一部の市民から、せいぜい「お気持ち」と揶揄することしかできないことです(揶揄する行為自体は不適切ですが)。

社会的な格差が、このような意味で、広がっています。


ゆたぼんはこのような社会背景に在る。体系的な学問に面と向かって一から適切に取り組むことが以前に比べ早くから行われるようになり、その態度が適切に評価される時代にあって、かつてのような「児童らしい無邪気さ」を代表して、「結果オーライ」という「昭和の夢」を追い求めている。

それはかつて、いしだ壱成がヒッピーに育てられた仕方と同じであるが、かつてと違うのは、社会から暴力が排除されて、方法的にフェアであること、それはすなわち(結果ではなく)「経緯」ということであるが、それ自体が、他者を道具としないことを反映して、個人を尊重する社会的価値を代表するようになったことだ。

ゆたぼんやお父さんが「駄目」と言っているのでは決してありませんよ。
周囲の方がゆたぼんの資質を理解して段階を踏まえているなと、私は見ています。
(かつてのヒッピーは、反社会的なだけで、気分ひとつで出鱈目をやっていたと思います。)