荻生徂徠対新井白石 生産能力を巡る「旅客の境界」

荻生徂徠の経済構想ー新井白石との比較を手掛かりにー(許 家晟).pdf

これは明治以降の戸籍の発展から考えると、非常に興味深い。
荻生徂徠の、「発展段階」を踏まえた、"現行での"農業経済を前提とした土着化、資本蓄積化は、そのまんま、初期戸籍の構想だからで(或る種の社団たる「家」で、江戸時代の家内生産を合理化して、"一歩"前進させる策)、そして、「旅客」問題(経済的自由権の中心たる、移動の自由)の取り扱いの苦慮の末、初期戸籍は崩壊するのである。

👇翻ってこちらは、全く評価できない。当時の文献にちゃんと当たったのだろうか?大いに疑問がある。
戸籍は、その前史に、徴兵登録、貨幣経済を建前上の前提とする徴税登録を持ち、未熟な資本主義経済(比喩的に、「アダム・スミス主義」)へ傾倒せずに一旦農本主義経済(比喩的に、「ケネー主義」)に軸足を置いて、その限りでの商品経済を前提とする「家」構想(むしろ、会社の登記に近いものー「商号」(氏)と名簿と身分と「目的」(業:なりわい)を記載して)だったと自分は考えている。ここで国家とは、家の入れ子構造として理解されていたのだろうと思う。しかし、新井白石流のより抽象化された国家観も、一方であったのである。
同質性を求めるのは、むしろ抽象的国家観にも、近代国家ならば当然にあることであるし、家にまとわりつく道徳は、計量的な把握に基づく経済合理性ー簿記的な性格ゆえであると思う。近代に入ると、ニュートンを「キリスト」として、合理的な人間が求められたからである。合理的な人間とは、自己の外界に対しては計測し、自己自身に対しては、自己を単位とする社会の計測に沿うよう、その計量に耐える資質を求めるのである。
👇の論考は、当時の近代化に当然に求められた、係る「近代国家と近代人の相互依存モデル」をあまりに無視しているのである。
近代国家とは、経済的合理性(行為評価。計量化)と精神的合理性(存在評価。非軽量化)が求められるのであって、当初は現在の水準からすると、経済的合理化ー手段的合理化からの理解が際立っていたのである。

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