イオンと東大

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イオンモールの財務分析に関する参考情報.pdf
大学ってモールで、顧客は学生ってだけなんだけれどね。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

 

女子学生向けの住まい支援 | 東京大学
ただ、大学にとって学生は3面持っているってだけで。すなわち、顧客、商品、生産者(商品開発者)。経営合理的な施策に流動性供給もあるってことだね。
商品としての学生にどれだけ高額な「のれん(代)」を付けてやるかってね。
「のれん」は文化的なことだから。 
 アメリカの大学は寄付金で稼ぎ、日本の大学は「のれん」で稼ぐ。どっちもメディア商売よ。商売に良いも悪いもねえ。それでどれだけ稼げるかってだけの話で。

花嫁のれん―七尾・加賀

花嫁のれん―七尾・加賀

 

だから、そのうち、ソフトバンクあたりがEmall大学やっても不思議じゃないんだけれど、ヒトはオンナを超え、ヒトはオトコを超える現実を見られないフェミニズムの行き詰まりを見ると、仮にチセイはチシキを超える現実があって、その差が「のれん代」の源泉だとしたら、なかなか難しいものがありますな。

『東大の地方大学化』に関しては、地方医大の興隆とどれだけ相関があるか。
経営資金の安定的な調達を、健康保険と独立法人化から。
実は補助線として、慶応幼稚舎がある。経営って、営々として行われる、再投資過程なんだろうか。

かつて、相撲の八百長が問題になったときにちょうどサンデル先生の講義も評判になっていて、その問題が取り沙汰されていた。
評者は「相撲はスポーツである」という観点から問題を評価するのが常だったが、アメリカでさえも戦後の統治のための日本文化研究で、単なるスポーツの枠に収まらない、相撲の文化性を認めたんだけれどね。このとき、「単なるスポーツの枠に収まらない」という切り口が大事で、それをどう呼ぶかはさておき、ヒエラルキー形成機序の表現、と考えていたらどうだっただろう。
スポーツも実は「スポーツ」という文化に過ぎなくて、それを仮に「神秘」と言い換えるなら、その「神秘」は個人に宿る、しかも、無差別にということで、その表出機構がルールであるということでなら、「個人」の能力をインプットすると、「成績」が等しくアウトプットされるとして、そのようなスポーツに対して、相撲の場合、「神秘」は個人にやどる、ただし、横綱に、ということであれば、「横綱」の能力をインプットすると、横綱の「成績」が等しくアウトプットされるが、このとき意味あることとして、
八百長が許されないのは、原則、横綱だけである可能性が浮かびあがる。ここでは、横綱の神がかり的な能力を見るために相撲はあり、相撲は横綱の為のヒエラルキーである、と言える。横綱と他の力士は同じルールに則るべきか、もしくは、同じようにルールに則るべきか、が問われる。どうすれば正しく横綱の能力が測れるか。そのため安定的な対戦相手の供給が求められるときに、どこまで厳しく、対戦相手の入れ替えが行われなければならないか。ヒエラルキーの維持には、ある余裕は必要ないのか、必要であるとすればどのように調達されるべきか。オリンピックを見れば、選手選考に疑問を感じたときだってあるだろう。1回1回の勝負が総合的な能力を正しく表現しているとは思っていなかったか、今も思っていないのだ。だから、唯一、常に、全勝を目指す(義務付けられた)者としての横綱は価値がある。横綱との対戦こそが「オリンピック」であることを漫画にしたのが☟で、横綱戦への取り組み方にドラマがある(横綱無人格化する)。

(まぁ、ただ、八百長とは無縁の競技で、カレリンや吉田沙保里さんがいるので(そのような吉田さんもプロになって、競技者が競技を続ける為の資金調達という問題と向き合っているけれど))。

このような「横綱相撲」をかつては東大(東大受験生)も取っていたことが前提のお話☟

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

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