「彼は言っていた。五歳は聖書のため、十歳はミシュナのため、
十三歳は掟のため、十五歳はタルムードのため、十八歳は
天蓋のため、二十歳は追い求めるため、三十歳は力のため、
四十歳は理解のため、五十歳は助言のため、六十歳は老人のため、
七十歳は白髪のため、八十歳は力のため、九十歳は曲がった腰のため、
百歳はまるで死人のようになって過ぎ去り、この世から消え去る」
ーミシュナ〈4別巻〉アヴォート 第五章 21
昔弟があっちの方が大きいとか言うから、父がさ。
— 佐川・抜け首・なん (@nankuru28) 2019年6月21日
ロールケーキを買ってきて「好きなように切り分けろ」って。んで、弟は子供だから、当然、自分の分のつもりで、大小つけて切り分けたのね。
そこで父が
「分配というのは、責任を伴うものだ。分配を決めたものは自分の分は最後に取れ。」って。
いや、残念ながら、これは定番の教育法
俺も経験がある。
というより、子どものころ、俺自身が思いついた。
で、後で、父親が同じことを言いだして、マネしやがって、と思っていたが、別の機会にドラマだったかな、ドキュメントだったか、忘れたけれど、テレビで同じことをやっていたし、昭和の流行りの教育法ではあったと思うーいや、古今東西を問わず、どこにでもある教訓のようなものであると思うよ。
セン(Sen〔2〕)が論文の中で用いた、おそらく自作と思われる次のような架空の対話を紹介しよう。ふたりの兄弟が大きいリンゴと小さいリンゴをおやつにもらって話し合っているとしよう。兄はいきなり大きいリンゴの方を取った。
弟「お兄ちゃん。ずるいよ。自分だけ大きい方をとっちゃって!」
兄「どうして俺がずるいのだ。オマエならどっちをとる?」
弟「ボクなら小さい方をとるな」
兄「じゃあいいじゃないか。オマエはちゃんとそこにある小さい方をとっていいようになっているよ。」
弟「・・・・。」
この場合、弟が問題にしているのは明らかに兄が自分勝手な態度でコトに当たっているという兄の選考動機である。どっちのリンゴを先に取ったかという情報を通して、弟はこのような兄の身勝手な選考動機を知り、その選考動機が気に入らないのである。
〔2〕Sen,A.K. Rational Fools: A Critique of the Bahavioral Foundation of Economic Theory. Philosophy and Public Affairs,7,1977,317-343
ー「決め方」の論理pp295-296
👆これ、実際に、兄に言われた。
別の考え方。
自己に与えられない分こそ、均等に割り振りなさい。
ミシュナにおける破れた衣服の原理
2人が服を掴んでいて、一人は全部を要求し、もう一人は半分を要求している。
この場合、前者には3/4を後者には1/4が与えられるべきである、とミシュナに書かれている。
コトバンク『タルムード』ーミシュナ
ロイド・シャープレー - Wikipedia
右列に行列を組み直すと、単純になる。自己の考える自己の取り分ともう一方の考える自己の取り分の和の半分を自己の取り分とする。
👇の最終提案ゲーム(P53)並びに『第8章他者を顧みる心・・・社会的選考』と比べるとよい。
余談
体罰問題とモラルハザード
なぜ、体罰は忌避されるべきである一方、体罰容認は求められるか
➝感情とモラル維持の関係
低下する処罰で低下するモラル
処罰とモラルの関係について興味深い実験がグニーズとラスティチーニによって行われている。
ー行動経済学 経済は感情で動いている pp305-306
保険における「モラルハザード」の実験と同じ実験であるが、考察部分に特徴がある。
市場化されると「感情外」の問題化されてしまうことの弊害を指摘している(①)。
体罰はこれらの実験における「お金」の取引ではないが。
この実験の帰結が面白く、『罰金を課すことをやめた後でも、遅刻が以前の状態に戻らなかった』(p305)のは、不利益取引への「レジームチェンジ」は不可逆的であることを示している(➁)。これは現在問題になっている、「教師を挑発する生徒」の振る舞いそのものだろうかーいや、わからない。彼らは体罰の意味を身を以て知っているわけではないのだから。
ただ、モラル維持には感情伝達がキーであるため、体罰でもそれが強調されるのだが、①並びに➁の帰結から、自己実現的に説明されていると理解できるのではないだろうか。