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『私が求めるまで私は何も求めない(ひとつになることを求めるまで私は何も求めない)』というトートロジーによって彼女は何を言いたかったのか。パズルのピースだ。
風景の一部、というか隻影(本来対となるもののひとつの影※)になることで、それは個々の要素が独立して意味を持たないから、その風景の互恵的な関係として位置に名が付く。これは唯名論(認識論)であって、存在論じゃない。名を冠するのは位置(場所)であって「存在」じゃない。位置そのものに意味があるわけじゃない。Breakfast at Tiffany'sだ。僕なんか英語が苦手だから、 Tiffany'sに何が続くのか明言できないけれど、 Tiffany's Breakfastだと信じたい(もちろんレストランで食事するのだけれど)。そうするとそこにMe(and things)が成立する。しかし、それはTiffanyでタグ付けられていなければならない。だから、(Tiffany's Breakfastではなく)Breakfast at Tiffany'sだ。
※禅で「隻手の声」というと、「拍手したときに鳴るのは右手か左手か」の問答である。
トートロジーを経由して根源的規約主義に至る(ヴィトゲンシュタインらしい)。
よくわからない。
ミュンヒハウゼンのトリレンマは本当にトリレンマなのか。
π(超越数)と√2(超越数以外の無理数)と1/3(無理数以外の無限小数)は違う。
1.1412の1と1.321321321の1の意味の違いは何か。
どうでもいい。
ここで必要なのは、むしろ「相互前提供与」と言われる相互の意味づけであって、それに名が冠せられるときの表徴的な問いだ。そうか、表象ではなく、表徴か。
それが冒頭分の僕のplacesと呼応する。even soなハナシだ。何かが欠けてはown nothingになってしまう。非常階段だって、必要だ。
だけれど、彼女は旅に出る。どこかの名のある場所で名のないヒトと風景を作っているでしょう。セニョールが「非常階段」でないことを祈るばかりだ。
少し前のオスカーワイルドと比べたくなるよね。
漫画のモチーフにありそうな、或る意味「ベタ」な、ハナシだけれど、それはこの作品が元祖だからかもしれない。
畏まらずに、賢らぶらずに、ベタに訳すのが、この文章にはふさわしいと思う。