今日の国語

得だ秋声研究の第一人者。。。かどうかは、ほかの研究者を存じ上げないので、なんとも言えないが、相当の方。

本来の性格に深い根差(ねざし)を置いてゐる

徳田秋声 - Wikipedia

とは生田長江の言葉であるが、そんなことは考えられないと思っている。

生田長江 - Wikipedia

要は、生田には理解できなかったということだろう。

さて、『二老婆』であるが、国木田の『二老人』と岩野の『老婆』も併せて読まなければ、失笑ものであることを承知で眺めてみると、どうしても『偶然』に誘われる。

北海道中小企業家同友会 くしろ支部 - (189)『二老婆』

この頃、「偶然」を取り上げるのは、社会的意義があったのだ。
すなわち、科学的な意味か、それ以外の意味か。

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/11399/12/notes/ja/12minowa20180110_final.pdf

この講義では、中国語訳の経典に表れる『偶然』には『宿縁』のニュアンスのあることが多かったということであるが、

「偶」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習

「然」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習

ここで、日本語の(文法上の「順接」の反対である)「逆説」の発生の歴史を紐解くと、命令形+止であると説明される(大意)。まぁ、待ちなさい、であったり、そればかりでない、といったことで、順接は、それでよかろう、(それはよいとして)それからどうした、といったことである。「然」とは順接の方である。
それでは、何がそれでよいのかと謂うと、「偶」である。

「偶」には「偽」というニュアンスと「対」「双」というニュアンスがあるようだ。

中国語で量詞で「対」「副」「双」の差はなんですか? - 「双」と「対」は「二つ... - Yahoo!知恵袋

これが科学革命によって、「(単に)在る」すなわち、目的論をようやく卒業したのであった。

講義では「原因」を「長短」から説明するのであるが、「短」は「長」の「原因」であるから、「原因」にして「結果」はないのであって、要は、「存在」は「長さ」の「原因」であるということである。これは理由律であって、要は、規範である。「長い」とき「存在」の意味を当然に内包しているが、「在る」とき「長い」を当然に内包していないという、「前後」関係である。

そう考えると、「偶然」の規範性とは、何であるか。
これが、『城崎にて』へ受け継がれてゆくと思う。
徳田秋声にあった対話は、志賀直哉において独白の三段論法となった。
ソクラテスアリストテレスである。
ただ、そうなったのは、単に志賀直哉の美学であって、徳田秋声の美学ではない。

宗教と倫理からみる志賀文学 : 西洋の洗礼・東洋への回帰 ([金青均]): 2004|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

やっぱり仏教じゃないかなぁ。


勉強していないけれど、自由変数と束縛変数の違いを思い出す。

二階述語論理 - Wikipedia

議論領域 - Wikipedia

「タイプ(議論種別)」と「ドメイン(議論領域)」の違いがよくわからないけれど―ラッセルらの問題意識に倣うなら、集合論の是非だろうか?―、これは国語の話なので、(言語学上の)「文法」として理解するなら、どうだろう。

「文脈依存言語」「状態遷移ネットワーク」「拡張文脈自由文法」

言語の数理 - 岩波書店

アスペクト、文の述べ方

 

指示語の学習に関する研究なら、これを思い出す。

志賀直哉「城の崎にて」全指示語,菅原, 利晃