国木田独歩の『二老人』の後に徳田秋聲の『二老婆』、岩野泡鳴の『老婆』が立て続けに書かれたことは、
— 亀井麻美 (@kameiasami) June 9, 2022
「それぞれの作家が独歩の作品に対する批判意識を作品競作という形を通して表現していると見ることが出来よう」
(和田謹吾『自然主義文学』至文堂、昭和41年) pic.twitter.com/aqs2kjHHX5
得だ秋声研究の第一人者。。。かどうかは、ほかの研究者を存じ上げないので、なんとも言えないが、相当の方。
本来の性格に深い根差(ねざし)を置いてゐる
とは生田長江の言葉であるが、そんなことは考えられないと思っている。
要は、生田には理解できなかったということだろう。
さて、『二老婆』であるが、国木田の『二老人』と岩野の『老婆』も併せて読まなければ、失笑ものであることを承知で眺めてみると、どうしても『偶然』に誘われる。
北海道中小企業家同友会 くしろ支部 - (189)『二老婆』
この頃、「偶然」を取り上げるのは、社会的意義があったのだ。
すなわち、科学的な意味か、それ以外の意味か。
https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/11399/12/notes/ja/12minowa20180110_final.pdf
この講義では、中国語訳の経典に表れる『偶然』には『宿縁』のニュアンスのあることが多かったということであるが、
ここで、日本語の(文法上の「順接」の反対である)「逆説」の発生の歴史を紐解くと、命令形+止であると説明される(大意)。まぁ、待ちなさい、であったり、そればかりでない、といったことで、順接は、それでよかろう、(それはよいとして)それからどうした、といったことである。「然」とは順接の方である。
それでは、何がそれでよいのかと謂うと、「偶」である。
「偶」には「偽」というニュアンスと「対」「双」というニュアンスがあるようだ。
中国語で量詞で「対」「副」「双」の差はなんですか? - 「双」と「対」は「二つ... - Yahoo!知恵袋
これが科学革命によって、「(単に)在る」すなわち、目的論をようやく卒業したのであった。
講義では「原因」を「長短」から説明するのであるが、「短」は「長」の「原因」であるから、「原因」にして「結果」はないのであって、要は、「存在」は「長さ」の「原因」であるということである。これは理由律であって、要は、規範である。「長い」とき「存在」の意味を当然に内包しているが、「在る」とき「長い」を当然に内包していないという、「前後」関係である。
そう考えると、「偶然」の規範性とは、何であるか。
これが、『城崎にて』へ受け継がれてゆくと思う。
徳田秋声にあった対話は、志賀直哉において独白の三段論法となった。
ソクラテスとアリストテレスである。
ただ、そうなったのは、単に志賀直哉の美学であって、徳田秋声の美学ではない。
宗教と倫理からみる志賀文学 : 西洋の洗礼・東洋への回帰 ([金青均]): 2004|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
やっぱり仏教じゃないかなぁ。
ここでの三上の「直接指示詞として指す領分」というのは、記憶の中のリアルな像の意味(田窪金水のD-領域)。「アレ」や「コレ」はそういうリアルな像を結ぶが、「ソレ」は主に談話のセッション内だけで有効なもので性質が異なる(I-領域)。入試問題で「ソレ」は何か?が問われるのもそのため。
— yhkondo (@yhkondo) June 10, 2022
勉強していないけれど、自由変数と束縛変数の違いを思い出す。
「タイプ(議論種別)」と「ドメイン(議論領域)」の違いがよくわからないけれど―ラッセルらの問題意識に倣うなら、集合論の是非だろうか?―、これは国語の話なので、(言語学上の)「文法」として理解するなら、どうだろう。
「文脈依存言語」「状態遷移ネットワーク」「拡張文脈自由文法」
アスペクト、文の述べ方
指示語の学習に関する研究なら、これを思い出す。