アメリカで話題となった、中絶に関して。

〈私〉の不可侵性と〈存在〉の普遍性の対立として原理的に定礎したうえで

カトリックの教説から見る中絶問題──中絶に関わる諸事項の関連 – 立命館大学生存学研究所

に見られる保守的な文脈と反対に別の何かしらの文献に見られるリベラル的な文脈を十分踏まえて、

の一部分を引用する形で英訳してアメリカ人に紹介できたらイイナと思っている。

「透明な」は「人」以前の子どもを最後に手に携えられる程度のプラスチックのケースに「仕舞う」ことから名付けられた詩的な表現で(死亡届は出されない。)、(保守的な文脈の「こうのとりのゆりかご」との比較で)シンボリックですらある。

コウノドリ』を読んだことがないけれど、『透明なゆりかご』がネタパクリ疑惑(これは実体験を基にしてので、内容の総てが実話と思わないが、似たような表現があっても現場「あるある」なだけかもしれない※。知らない)で非難されたとき、一方の擁護対象となっていた記憶がある。共産党系の「推奨図書」なのだろうか。
コウノドリ』という語感だけから言うと、保守的な気がするが、どうなのだろう。共産主義なんて、原理主義な宗教(物語受容)的な態度に過ぎないから違和感はないが。
そんな風に色眼鏡で見ると、作品の質から言って、勿体ないと思うが、こういう、実話をドラマチックに飾り立てるのが、苦手なのだ。つまり、戯画的というのとも違って、心理的に食い込もうとするのが。『透明なゆりかご』はその意味で戯画的に収まっているから、受け入れやすい。「ヘタウマ」と「ギャグ」の効用だろうと思う。

ミュージカル映画の『レ・ミゼラブル』のような政治感動巨編が、ソープオペラを思い出して、苦手で(『グレイテスト・ショーマン』は感動した。あれも虚飾に満ちているが、力強い表現作品に感動した。『ラ・ラ・ランド』は素晴らしい作品のような気もするがそれほど関心を高められることがなかった)、『透明なゆりかご』の方が、入り込みすぎないからこそ、感動する。

※文脈から「似ている」との指摘だったが。