廃校していた6

 

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加賀藩の藩校・明倫堂と経武館の歴史と明治以後の高等教育の発展 | 金沢大学附属図書館 OPAC plus

PP11-12,加賀藩の藩校・明倫堂と経武館の歴史と明治以後の高等教育の発展
板垣 英治(金沢大学学術情報リポジトリKURA

この後、西田幾多郎は「初めは理系で数学を学んでいた」とか、「徳田秋声もこの学校に在籍していた」とか書いてある。
そもそも高等中学校(後の、高等学校)は、中等教育への熱意と実績を買われてのものだった(「熱意」とは、前田家の支援を当て込んでのものではなかったかと訝しく思うが、修学「実績」は素晴らしい)。
すなわち、後に帝国大学の誘致に失敗するにしても、中等教育の際だった充実が、金沢のちょっと類例の見られない特徴だったらしい。
それから、一中は「城下町」としての方向性を採って「愛国」「皇道」の文字が踊るが、師範学校はどうだったのか、特別科学学級という国策への協力が見られるにしても、期待された役割の違いもあって、校風の違いが興味深い。近代化の対抗権威的側面と自由の側面が学校に反映されやすいのだろうと思う。
※「反体制」ということではなく、諸勢力の相対化である。より「積極的」か、より「消極的」かで、(政治学的に)差が出るらしい。

関口開については全国的にもっと知られてよいと思う。

www.ndl.go.jp

積算方法がわからない比較が成立するかわからないとはいえ、こういう時代にあって、22万部売り上げたのだから、社会の教科書に載せてもいいじゃないか、と思う。

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「戦後」の歴史学には、言語を通じた功罪がある(だから「歴史学」を盾にどやされるともやっと来る以上のものがある)
地元民からすでに「言葉が失われて」いたのだ。