2つの「戦後」があった

これは微妙な問題で

  1. キリスト教と地域性は無縁か
  2. 数学と地域性は無縁だったか

いずれも「普遍的」であることを謳っているが、なかなかどうだろう。
数学は何度も「革命」を起こしてきたので、過去形にしてある。

近代が「ポストキリスト教社会」である前提に立つならば、1を無視できない。

少なくとも、2つの「戦後」の方向性はあったはずで、それは大雑把に言うと、モダニズムを工業化社会から受け取るかどうかにかかっていて(「前期近代」を資本主義と工業化の進展から意味づけるか、神学論争就中普遍論争の延長に科学革命を考え、科学革命の反映と考えるかで、だいぶ様子が違うと思う。)、分析哲学を発展させた英米と、それを拒否した社会があったのは、「歴史的事実」じゃないかな。

むしろ、今の30代が、当時の「論理学」を巡る論争を知っているかどうか。
マルクス主義論理学」が分析哲学と対抗していたらしい(『中国人の論理学』の半分はそれに費やしている。というか、主要なテーマはそれだ。ただ対立ばかりしていた「マルクス主義論理学」とは何だったかを、日本語の論理性を三上文法などの国語学の変遷から語りつつ、中国語や墨子の思想から語り始める(前半部の内容)。それらは言語学への導入であって、「接辞を欠く概念語」という中国語の性質とそれゆえの彼らの言語を通じた手続きとしてのコミュニケーションから「中国人の「マルクス主義論理学」」を―二重括弧化して—理解してゆく)。
そんな顎が外れるようなことが本当に「あった」ということだ。

実際に彼は不遇を嘆いている。

「歴史」を扱うのは、歴史学だけじゃないからねぇ。
政治学史」或いは「論理学史」って「歴史学」なのかな?

markovproperty.hatenadiary.com

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いや、昔は英語を、漢文風に教えていたわけじゃないよ。
そういう文を作る子は、そういう理解じゃないかなと思って。
それは「英語を学ぶ前の話」だから、30代以上が受けた英語の授業とも関係がない。