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シェークスピアから遠ざかってしまうばかりだが、実は、シェークスピアの時代とルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンの時代の類似点がないわけではない。

第二帝国
https://www.y-history.net/appendix/wh1202-036_1.html

第一帝国
https://www.y-history.net/appendix/wh1002-085_1.html

英仏植民地戦争/第2次百年戦争
https://www.y-history.net/appendix/wh1002-032.html

東インド会社
https://www.y-history.net/appendix/wh0904-057_1.html

シェークスピアの時代は、所謂「第一帝国」の準備期(地中海から、世界の海へ)で、ドジソンの時代は、所謂「第二帝国」に差し掛かりつつあったようである。

ビクトリア女王(1837-1901)は、非ユークリッド幾何学とともに、生まれてきたのだ。

地球平面説という神話,Institute of Reproducing Kernels
https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12189862066.html#:~:text=%E7%B4%80%E5%85%831000%E5%B9%B4%E3%81%94%E3%82%8D%E3%81%AE%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%AE%B6%E3%83%BB%E8%91%97%E8%BF%B0%E5%AE%B6%E3%81%AF%E7%9A%86%E3%80%81%E5%AE%9F%E9%9A%9B%E3%81%AF%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%8C%E7%90%83%E4%BD%93%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%A8%E7%A2%BA%E4%BF%A1%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A8%E8%BF%B0%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B

中世の知識人は、地球が「球体でない」なんて、誰も信じていなかったのだ。
どうもこれは、差別の文脈で、むしろ騙られてきた、、、、、、ことのようだ。信長神話にもよくよく注意しなければならない。
ならば、世界一周の航海に出たコロンブスは、どんな地図を持って出たのだろう、ということである。

 

新しい幾何学の発見 : ガウス/ボヤイ/ロバチェフスキー <数学新書>
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=434521265


素朴な直感では、地球が丸いことを確信するなら、目前の平行線がいつまでも平行線であってもらっては、はなはだ弱ることとなる。地球の裏側に到達しないではないか。

ポワンカレの円板モデル - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%81%AE%E5%86%86%E6%9D%BF%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB

対数の発見は偉大であった。

シモン・ステヴィン     1548年  - 1620年
ジョン・ネイピア      1550年  - 1617年
ウィリアム・シェイクスピア 1564年  - 1616年

ほとんど「同年」(山本,P.100)である。
ネイピアは面白いスコットランド人で、熱心なプロテスタントでアンチ・カトリックの、イングランド無敵艦隊に攻められて以来のスペイン嫌いであった。
それ以上に「同年」なのが、シモン・ステヴィンである。
この人は数学史上きわめて重要な人で、どうも史上初めて、「点」を「0(次元)」と言えた人らしく、そうすることで、「数」は「数」であり、「量」ではない、とプラトンの1の絶対性と「アリストテレスの「量の理論」の根幹を否定した」(P.90)のであった。これが重要であって、ギリシャ哲学への批判(という前提)を欠くと、単純に「量」と「数」を比較しても、それはやはり「量」の比較になりかねない。ロジックが本質的に必要なのだ。粋がって「量」と「数」は違うと言っても、意味がないのだ。意気込みで語るようなことではない。

そうして初めて、小数が生まれるのである。小数が有効なのは、対数に関してであったのである。対数の発見者であるネイピアが小数を定義づけることで(アイデアは、先行したシモン・ステヴィンと同じだが、ステヴィンの場合、小数ではなかった。)、対数の普及に付随して、小数の(発見者ではないが)普及者となったのであった。 対数の発見は、どうしても当時の遠洋航海技術と関係して語られ易いが、ネイピア自身は、占星術の愛好家で、そちらの興味から研究していたようだ。1594年、ティコ・ブラーエに対数の示唆、というか、(そうとは告げずに、)計算法の予告をしているのだが、ティコ・ブラーエは天文学者である。

1510年 ヨハネス・ヴェルナー『球面幾何学』の手稿に積差の公式
    「この式は、天球上で黄道と赤道、そして赤道と直交する子午線からなる直角
     球面三角形の公式にほかならない」(P.112)
1585年 シモン・ステヴィン『算術』
    三段論法によって、(基数を0とする)「数」の発見
    定義1 算術は数の科学である.
    定義2 数は,それによってそれぞれの事物の量を表すものである.
    (『算術』冒頭「諸言」,P.79)
1605年 シモン・ステヴィン『数学覚書』
    統計、簿記の解説。実用数学の書。
1594年 ジョン・ネイピア。ティコ・ブラーエへ手紙を出し、対数を示唆する。
1614年 ジョン・ネイピア『驚くべき対数規則の記述』

ステヴィンの『算術』には方程式論があって、ここで「区間縮小法」ないし「はさみこみ法」を使っている。もとより、方程式とは、「はさみこむ」方法である。また、それは、連続している。

シモン・ステヴィン-Wikipedia


ネイピアは想像以上に面白い人で、ネいピアの骨は、機械式計算機の「心臓部」

1624年 ヘンリー・ブリッグス『対数の計算』
    常用対数による対数表を発表。
 〃  エドマンド・カンター。対数尺を使った計算尺を発明
1891年 ジュナイユ。ネイピアの骨へのガイドを付けた計算棒を発明。
    桁数の分だけ並べれば、例えば、52749×4を、5本の計算棒のガイドに従え
    ば、各桁の数を出せる
ヴィルヘルム・シッカート。ネイピアの骨を使ったダイヤル式の加算計算機を発明したが、ケプラーに無視される。
パスカル。17歳のときに、機械式計算機「パスカリーヌ」を作り、商人や徴税吏員の父の仕事に役立てようとする。引き算の計算と3つ以上の複数の項数の同時計算に優れたアイデアを見せる。量産開始。

と時代は流れたらしい。