別に世界標準といわなくてもいいが、英米の保守党(共和党)は「小さな政府」だし、大陸でも保守党は財政規律重視。それは国家への懐疑があるからだ。
— 池田信夫 (@ikedanob) October 23, 2023
日本では逆に保守主義と国家社会主義を混同する連中が多く、安倍元首相にもそういう傾向があった。日本保守党も、彼の国家主義を受け継いでいる。 https://t.co/KgUmQoHjdP
それは「保守」を「左翼」と同じ政治思想だと捉えるからで、「保守」はおそらく文化傾向のことで、フランス人が家族形成から指摘した通り、日本人に共有でき文化傾向は、社民主義に近いと思う。比較になるかわからないが、キブツが社会主義に近いようなことだ。
「国家への懐疑」の段になると、
自然権と自然法の思想の成り立ちから言わなければならなくなり、王権との関係を整理する必要が出てくる。
このとき、そもそも、キリスト教なんだから、「世界標準」は「キリスト教国家標準」と言い換えられる。
近代の場合、「神」や「王」に代わって、それ自体が善の器として期待される(自己言及される)「社会」が出てくるから、混乱するのであって(それを時間軸を加えたのが「歴史」に過ぎないのであって☟note)。
池田の議論では、アナーキーと自由主義やましてや自由民主主義の違いがよくわからなくなる。よく「自由主義」というけれど、本当は自由民主主義ですよ。
☞note
歴史における意見に反映される。
私は、「アイヌ新法」は「意味がある」と思っているんだけれど、それは「元寇」があるからなんだね。
あれは「世界大戦」だよ。
なぜ、「世界大戦」なのか?この「世界大戦」というのは、近代の語彙なんだけれど、敢えてそれを使うのは、
- ナショナルヒストリーでは、主語の限界がある
- インターナショナルヒストリーでは、相互主義を採れる
からなんだね。これを、例えば、最近の傾向にある、「アジア・太平洋戦争」という語彙と比較すると、(「大東亜戦争」「太平洋戦争」と比べて)相対化はしているけれど、1の限界を超えられないんだね(これに関しては、だから悪い、と短絡できない、「大東亜戦争」は行政的すぎると思う。文献って「行政文書」でしょう?反体制をきどるわけじゃなくて、それには、法文の理解が必須となるが、どうも怪しい。すなわち、「法文」である以上、意思決定だからだ。歴史を意思決定に服させるの?との疑問を惹起することとなる。そういう意志乃至意思に基づく歴史観がないわけではなく、それは自由だが、ただそれを「科学」と言うことについては違和感を抱くよね)。
元寇に関して言うと、元の世界支配、と言ってしまうと、主語にからめとられてしまうんだな。主語はそれぞれなんですよ、と敢えて言う必要がある。
そうすることで、元は、「日本」「ベトナム」「アイヌ」と戦ったことがフラットになるんだね。その結果、「朝鮮出兵」が、「朝鮮」「明」「ロシア」の間でフラットになって、実は、日本の「鉄砲伝来」が、それより先にあった大陸への「大砲伝来」の「型落ち」に過ぎないと気づく。
これが大事なんだよ。
つまり、戦争の概念が「戦闘」から「戦争経済」に移るんだね。
つまり、「強い」かどうかへのこだわりを脱して「リーズナブル」かどうかに移るんだ。
これがなんで歴史を考えるうえで大事かと言うと、「兵站問題」なんだね。
「兵站が大事」と主張する人と、「元が怖い」「隋が怖い」と主張する人は、両立するか。
しない。
なぜか。
すなわち、それが軍で在る以上「兵站を無視する」ことがそもそも原理上不可能であるし、実際に、無視したことはないんだよ。
元が日本に勝てるわけがないワケ。同時に、おそらく、日本も明に負けてたと思うよ。
朝鮮やアイヌは、朝鮮は明の支配下にあって、アイヌは独自の社会形態から、「非武装」と判断しても、それほど難しくはないんじゃないかな?知らんけれど。
武装集団が勝って当たり前なんだよ。このときに、「朝鮮出兵」後の、朝鮮とロシアの戦争が意味を持つわけ。
勝っているんだよ。日本の鉄砲で。
じゃあ、なんで「兵站を無視した」と言われるかと言うと、「自己実現」だからなんだね。要は、「兵第一主義」なんだよ。この文脈では、 現にそこに兵が居る じゃないか、で説明が十分になってしまうんじゃないかな。
分析を放棄しやすい。それを「情報将校」が「兵ではない」立場から主張したんだろうと思う。
現場主義に傾きやすいんだよ。
だから、イギリス人の「日本軍は、兵は優秀」という評は、相当割り引いて考えた方が無難だぞ。言っているのが、イギリス人だぞ。あの自然と出る皮肉が専門の。
そもそも変な言葉遣いだよ。
話を戻すと、「相互主義」は「対等主義」と対立するんだね。
当時にあって「対等外交」なんて概念がないんだよ、おそらくね。「相互外交」であって。しかも、「国家」じゃないから、それぞれの「統治」の文脈を「相互」に交換する。一種の多元主義だね。もちろん、この「多元」も近代的語彙であるから注意が要るけれど、曖昧な中で、「一元的」な支配力はなかっただろうと思う。つまり、否定論法。
ここで、わかる。主語が複数になるんだよ。
じゃあ、ナショナルを形骸化するかというと、そうでもない。
それが「アイヌ新法」を巡る騒動であって、「歴史の改ざん」ではないかと誹謗を受けて居るが、それは誤りだね。
すなわち、「元」に着目するのではなく、対象たる「トピック」に着目する態度(評価を伴う決定)なんだね。「アイヌ」とは「そもそも」何ですか、ではなく、歴史の過程に於いてアイヌは何かしらを「形成してきた」ことを尊重するってことだろうと、私は法文を読んだね。だから、今後、いよいよ考古学上の発見が相次いでも、政治的なこの態度は、変更を余儀なくされることはないんだよ。歴史に反しているわけではないんだ。
私は、それに賛成。
上の美濃部の例もそうだけれど、学閥支配による、歴史観に覆われているから。
地方の人間からすると、明らかに偏った「東京史観」「中央史観」なんだね。富山の「米騒動」をプロレタリアと解釈するのはお笑いだとしても。
そんな単純じゃないよねって、普通に思うだろ。
「元が怖い」とか、「隋が怖い」なんて、馬鹿げているよ。
兵站を考えれば、当然にね。
これも「トピック問題」なんだ。
加賀藩はアイヌや大陸ロシア、カムチャツカと交易していたからね。何があったかはよく知りませんが。