プリンストンへ行ったのは、大蔵省の窓際ポストの指定席。バーナンキに学んだかどうかもあやしい。彼は一度も高橋の名前を引用したことがない。
— 池田信夫 (@ikedanob) October 23, 2023
帰ってきてからも国交省の電話1本しかない「追い出し部屋」にいたので、私が経済産業研究所に呼んだ。 https://t.co/9QKNrfK0sJ
なんていうかね。
フリードマンに感銘を受けた話が削られているね。
高橋)私はそれが気になっていたので、バーナンキさんに聞いたのです。そうしたら自分の論文を渡してくれて、「洋一、お前が正しいよ」と言われました。それからの付き合いです。
日本のマスコミが「バーナンキ氏のノーベル経済学賞受賞」をまともに報道できない理由 高橋洋一が解説 – ニッポン放送 NEWS ONLINE
高橋はBenjamin Shalom “Ben” Bernankeのクラスにいたわけではなく、こういう話相手だったわけだけれど、これを以て「指導を受けた」と言えるのか。
これはただ教育するのではなく、人格面を含め道徳的な教育をし、また指導をせずに自分自身の徳の力によって人を感化し育てることです。
「薫陶を受けた」のは間違いがない。
オックスフォード大学では、学生の指導の核として、チュートリアルと呼ばれる個人指導が行われています。チュートリアルとは、1~ 4名の学生が一人の教授について週1回専攻分野の指導を受け、本を読み、論文を書いて教授に批評してもらう学習法です。
バーナンキの授業を採る必要はないと思うけれど、高橋とのやりとりが、「チュートリアル」と呼べるかどうかだね。
高橋洋一とバーナンキ、池田信夫とフリードマン、内田樹とレヴィナス、上杉慎吉とイェリネック、夏目漱石とウィリアム・クレイグは考えさせられるものがある。後者二人は起居を共にし、チュートリアルを受けて居たと思うけれどね。内田樹は、質問をしたためて送ったのだったか、レヴィナスから激励の自筆の手紙をもらったんだよね、確か(上杉は、特にイェリネックの晩年に会うのを楽しみにされたほど「懇意」と呼べる付き合いをして、葬式には、日本人学生の代表として出席した。美濃部はイェリネックの「ファン」であって、手紙を書いたのではなかったか、こちらは返答がなかったと思うが、忘れた)。
夏目や上杉はともかく、高橋が特殊なのは、
アメリカの教育長官と諮った上で
ということも、政府内部の人間として、「ある」からなんだね。森さんだって、最初から、「大物」だったわけじゃない。むしろ、という感じ。
戦後のフルブライト基金はどうなのかな。シンパを増やしていくのも大事だからね。
ただ、それはアメリカ人特有のコミュニケーションかもしれない。
誰かに教えを受けた、というのは、業績が伴わないと意味がないんじゃないかね。
個人的な励みにするなら、大事にしてよいと思うけれど。
彼女は後にうやうやしく彼女の "dissertation-mother" について話した[48]。
ネーターは、ドイツ時代に、相当排他的だったと言われているけれどね。
別にアメリカ人に変な印象を持つ必要はなく、私の個人的な経験では、ほとんど変わりがない。日本人同士だって、隣村(隣の町内会)へ行くだけで、全然違う。
美濃部の場合、イェリネックではなく、一木喜徳郎との関係が、歴史上重要であって。
一木はそれくらい大物だっただろう。