そもそも左翼って、キリスト教系のモラル体系のうち「オカルト」に分類されるものに過ぎない。
道徳乃至規範体系って、近代社会に必須だろう。
- 日本の近代化にともなう道徳的意義を整理すること
- 世界的に席巻したオカルトの、日本における受容を整理すること
- 戦後の道徳教育が、国語を中心になされたとき、背景を整理すること
- 学問のレベルでは、特に、法学、歴史学に規範傾向の弊害が顕著であることを整理すること
のいずれかでもしたのか?って話。
特に、政策文脈については、疑問に感じる。
個人的に言えば、「親学」が不足していることの方が弊害が大きいし(不足しているからレベルが低い。)、日本会議なんて「派閥政治(の後退、乃至変化)」の延長でしか意味がないし、「家父長制」なんて欧米の法文脈は日本においてはそのままでは奇異であってむしろ時流的な概念を直接反映させる立法施策に問題があるし(離婚時の原則単独親権の弊害。抽象レベルでの再構築後に政策が反映される構造に転換すべき。すなわち、世界的な原則である共同親権を日本の原則としても採択し、柔軟な政策的措置を講じるべき)、「留守番が虐待」といいうのは、私が小学生だったころからの長い議論があってそれを無視するのは疑問に感じる(イデオロギーは関係がなかった)。
つまり、貴方の言っていることは、ほとんど出鱈目にしか聞こえない。
うっちゃったままだったけれど、
ソコツ VINEメンバー
★★★★★ 神話の解体と再構築
2023年12月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入本書のキモは、近代仏教学が客観的な学術の装いのもと、仏典のうち現代人には奇異に思われる要素(超現実的な記述や今日的な意味での差別的な発想)を排し、世間受けの良さそうな「人間ブッダ」の姿を語ってきたことの問題を鋭く論じている点にある。こうした方向性は、欧米の学術では既に見られたとはいえ、世間に生きる僧侶や仏教徒の多い日本でほとんど行われてこなかった(魚川祐司氏などが少し近い趣向でパフォーマンスしてはいたが)。
自由主義神学のことなのか、ということ。
教皇ベネディクト16世は、自由主義神学について、神の国を個人主義的に解釈しようとするものであり、一面的で根拠のないものであるとした[9]。
大事なのは、これもまた、神学の一派であるということ。
「個人主義的」でなければ何か—一つの可能性は、「幾何的」である。
法学の規範的弊害とは(論理ではなく)「文理主義」に依存することから生じるが、歴史学の規範的弊害とは、一例を図示すると、おそらく以下のとおりである。