【メモ】訂正を続けながら、やわやわと書き続けます

ちきりんと

そもそも間違っている。
学校は必要なのか。はずいぶん長い間の議論があって、そのことを完全に無視している(大学は必要なのか、は実は、学校は必要なのか、の疑似問題ないし、せいぜい派生問題に過ぎない。)。まぁ、この時点で、かなりずれている。

すなわち、

①共同体維持のための感情教育
②共同体維持のための技術としての(論理学など、すべての学問に通じる基礎的な技術も含む。)、教科教育

に分かれ、

〇マス教育ー同時、全員、全人格(教科)による、同心円的差別化による一元的統合過程。センター試験も、(共通一次の導入からして)この文脈に依る(したがって、この文脈に依らなければ、そもそも、センター試験が必要かは自明ではない。具体的には、教養課程を大学から排除すれば、一斉に行われる大学入試など、そもそも必要ではない)。
〇学校は「学校産業」、すなわち、教育内容、児童生徒、教師を要素とする、技術制約に依存する再生産工程を持つために、保守性ー経路依存性ととりあえず基本構造の現状維持の硬直性を持って(つまりはレガシーシステム維持のパッチ的漸進を続けて)、カタストロフまで続けられる。

ゆとり教育」はだいぶ誤解があって、直接の利害関係者のプロパガンダはともかく、多くの人がそれに乗ったのが、認識上の自己肯定(自分の受けた教育を肯定したいバイアス)と自己のうちに積み上げた「教育資本」の無効を忌避する取引観念(新しい認識に立つ新しい社会に対応するには、新しい教育資本の積み上げの、新しいコスト負担が発生する)の表出に他ならないが、学校の置かれている社会的意義を問うには、シンプルにこう聞けばよかったのだ。

そもそも勉強は学校でしなければならないのか

これは、すでに豊かになった日本の社会が、その社会的な豊かさ(経済的豊かさだけを指すのではない)への志向を維持するには、それまでの教育では難しくなったことを背景に持つ(だから、シンガポール教育の良さの喧伝は、『バブルへGO!』或いは『3丁目の夕日』と同じくらい、割り引いて聞かなければならない)。簡単に言うと、後進国教育では、近代的産業社会の基礎部分を作るには効率的であったかもしれないが、すでに先進国である日本の行く末を支えるには、あまりに硬直的でシンプル過ぎるのであった。仮にそれが言えるのであれば、長時間、不可逆的に学校に拘束されるのは社会的に不当である、とも或いは言えたのであった。
もちろん、それは家庭部門の負担を直接に増やすことになるので、様々な反応を呼ぶのであったが。

今は、レガシーを保存しつつ、従来の考え方では鵺的(で、絶対に受け入れなれなかった、たとえて言えば、当初の幼保一体へのハレーションを生むよう)な「学校」への塾の内部化、内製化が進むこととなったのである。

端的に言って、学校による実技教育の、塾への敗北宣言である

もちろん、地方と中央の違いは如実にある。
しかし、これは単純に、民間の投資効率の良さに負けたのであった。つまり、多様な社会の実現には、このような投資の機動性と柔軟性が不可欠ということである。多様性は統制では達成できず※、マーケットにこそあったのであって、個別性の受容と格差の受容は表と裏の関係にあった、と言い換えてもよい。
そういった点のみを取り上げるのであれば、かろうじて、チキリンの主張も成立する(が、もちろん制度論としては、厚生経済学(外部性)を持ち出すまでもなく、不十分である。彼女は何処まで行っても、アジテーションを辞さない、マーケターなのだろう。)

※戦前導入された学区制度がナチスのフォルクスシューレを参考にした「悪魔の仕組み」と呼ばれた、との指摘をしたのは堺屋太一である(学校を「新しい」共同体の中心に据えることは、明治期から指向されていたことであったが)。センター試験は、現代版「悪魔の仕組み」であって、(受験内容より、むしろ)入学規制である点が、特徴的である(これは実に「悪魔的」であるのは、導入当初は、むしろいわゆる「エリート校」はこれを馬鹿にして避ける傾向にあったし、3教科のみとかの参加もあったー今ではどうなのだろう?ー現在の参加校の多さ、その自然増、はまさに官僚の「優秀さ」の面目躍如であるー自然な統制受容、あるいは(民間部門を十分に巻き込んでの)自然な一元的統合について)

総合学習の時間は、戦後の長い間の教育におけるさまざまな試行錯誤の一つの果実であって、どのような政策であろうとその実現には様々な文脈を持つものであるが、敢えて簡略化すると、教科に縛られない教養教育の低年齢化、であって、それは技能と謂うことであれば、「総合化する」技術を見据えて、論理的な表現を実現するアクティブな基礎的訓練と実践のことであったのだが、これは「詰め込み教育の否定」「(ゆとり教育の先駆けでもあった)レクリエーション教育における協同性」「(民主主義的な議論に通じて、自ら決める主体を創る、といった)民主教育の目指す主体性」がごっちゃになっている。「詰め込み教育(否定)」は、リベラルアーツ(の持つ統合性に根差す、総合性のーしたがって、各教科の積み上げを否定するものではない)肯定と言い換えられるのであって、戦前にあった、エリート教育に代わる市民教育に資することができたはずで、これは「ゆとり教育」に伏流する、エリート教育の独占の否定に通底するところもあったーわかりにくいかもしれないが、「ゆとり」のある教育実践はむしろ、エリート校の専売特許だったのであったー少なくとも、「美しく」語られるところによれば。戦前の、パブリックスクールを模したような、幼年学校や   しかり、

教養課程の

〇各教科の資格化に基づく、到達度試験ー税理士試験を見よ!
学校教育法上の学校、すなわち、文科省傘下の学校と経産省傘下の各種学校の垣根を取り払ったダブルスクール幼保一体化、「こども園」を見よ!

そうなるとわかってくるが、補助金を巡って)上で言った技術制約の中には予算(化)制約を含む、のであった。逆に、予算制約のプレッシャーが(合理化という、システムを運営する上での)統合化を指向する、と言えるかもしれない。

最も理想的には、
①教養課程たる市民化教育を、(ある種の非効率を含む)民主主義のコストを支払い、義務教育のうちに済ます。ー大学の一部解体
②それとは独立の、共同体教育も施す


そう考えると、アメリカ人の社会主義嫌いは有名だけれど、もっとも「社会主義的」である学校システムは許容してんだよね。本当は、家庭教育だけでいい、という人が多くても不思議ではないけれど。それについては実際にそういうことがあったらしく、アメリカの歴史を紐解くと、彼らの考えを変えてゆく画期的なことが在ったらしい。つまり、学校による公教育が当然と考えるのは、むしろかなり特殊な状況である、ということであって、経緯(或る意味での、非合理性を含む。)と経済合理性の合体なのであった。

なお、「大学は社会的浪費」説には、(そういったアメリカの研究があっても)慎重であって、すなわちあくまで極端な例であるが「社会的引きこもり」の問題をクリアにできないのであれば(逆方向から言えば、新卒プレミアムである。つまり、大学の社会浪費は、新卒価値・量需要に従属するー社会計画なーんじゃないのかな?そういう「社会主義」が無駄、というなら、新卒一括採用だって実は「社会主義」なのであって。そしてそれは現に在る。学校制度は社会主義の一環なのだ、ということを、まずは素直に認めないと。そうすると、冒頭の問題提起に戻る。要は、近代社会である以上、或る程度の社会主義を受け入れなければならないが、その「或る程度」の匙加減を明確に言い当てるのが難しく、我々はいつだって匙加減を問題にするのであり、あとはせいぜい盛り付けが問題になる程度なのである)。いずれにしても、どの資産をどのように浪費するか、は代替的であり得る、のではないか、と思っている。犯罪経済学の応用として。そう主張する人にかけているのは、「すべての制度は補完的である」見方であって。そもそも欧米的な「解決」は、当該システムの適用範囲を明確にして、問題をその枠組みで限定的に考えるのであって、問題を他の制度に移管することに陥りがちではなかろうか、という疑念を持っている。それで言えることはたったひとつではないだろうか。すなわち、

俺は悪くない。


無償化が国の教育費うんぬんという文脈で議論されるのであれば、教科(毎)の資格化とダブルスクール容認し、ネットでつないで、例えば、「日比谷の国語Ⅱ」「筑駒の数Ⅰ」「放送大学微積分」を同時に受講できるようにすればよく、その前にその教科の評価を定めて共有する技術の開発が必要になるか、そのためのお金がかかるでしょって話。教育費なんて上げようと思えば、どんだけでも上がる。評価に関しては、(複数の)紐づけの問題になるだろうけれど。
そうすると、企業は、学生徒・学生の或る「セイバーメトリクス」のポイントを見て判断するわけだ。マッチングシステムも構築して、無駄な就活なんて、やめればいいんだけれどね、金の使い様はどんだけでもある。
オーダーが成立しなければ、じゃあ今年はこの「資格(教科)」を取ってポイント上げるか、と言う話で、なにしろ、(規格化順応性が高いことへの評価である)新卒プレミアムがなければ(そう考えると、黒いスーツで統一されていることが、デモとして誠に正しいことがわかる)。ただし、新卒プレミアムはなくても、各資格の賞味期限はあるわね、一回取得すれば永遠に、というわけにもゆかないだろう、人間劣化するもんだし。この場合、ポイントが漸減することになるか。頑張っても頑張っても、一定以上のポイントが貯まらないという、「見える壁」にぶち当たって、そこらへんであきらめて就職しなさい、というね

ただ、それは「気持ち、はばかられる」という話で、結局、「インパール」がなぜ起こるかと言うと、手持ちの材料で、わかるところからするしかないのであって。


東君、今度はこれをネタに、SF書いてみないかい。
そういうわかりやすくイメージを提供することが大事かもしれない。
メディアが必要だ。そのプロ👇

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「クォンタム」シリーズ第2弾。
「クォンタム・スクールズ」でや、このアイデア。やってみんか。
『1984年』が流行っているらしいし。イケルで。

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

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 ちなみに、学校なんて要らないと言っているのは、takaponだけれど。