本当は「真逆」だよ。
『子供っぽく』するのではなく、"エリートらしく"『大人っぽく』しないと駄目。
根本的に勘違いしているんだよな。
けなしているわけじゃないよ、仕方がない。
そういった経験がないだろうから。

なぜ、わざわざ余計な"エリートらしく"を入れたかというと、それを入れたほうが、おそらくわかりやすいから。
つまり、「エリート」って社会的立場でしょ。その立場性を客観視できるくらいに、メタ認知が発達していてほしい、ってこと。
『僕が、思う』じゃ、評価に値しないんだよ。

「読書感想文」も「作文」も「面接」も同じ。
なぜ、作文を書かせるのか。
例えば、卒業式がそうであるように、学校で行われる以上、"必ず"教育目的があります。目的がある以上、目的に至る道程があり、それに応じた評価があります。
これが理解できるほどに成熟しているかどうかが見られる、ということ。
つまり、「僕が」では決してない、ということ。

その目的を鑑みた時に、自分が何をできたかを、評価に比するなどして相手に理解できるように、"説明する"んだよ。その把握能力と説明能力を観ているわけです。
そのことをそもそも理解できないというところに、幼さを感じるわけですが、まぁ、いかにもエリート然とした「総合力」よりも、昨今の技能優位の傾向を見ると、どうなんでしょね。知らんけれど。子どもは子どもっぽくていいと思うし、だいたいいまどきその手の「大人っぽい」子どもっているのかね?ーだって、大人でそれを理解できない人がいるんだから、そもそも子どもに教えらんないでしょ。
まぁ、どうしても「予習」したいなら、文科省の学習指導要領を熟読して、志望校の指導方針と指導実績並びに指導の特長を把握しとくぐらいはするんじゃないかね。就活で「四季報」くらい読むってムカシはあったな(笑)

いつも言うけれど、子どもの読解力の前に大人の読解力。

もう中学生だからね。中学生の、しかもエリート中学生になると、その程度の社会性は求められると思うよ。
君は年齢の割に少し幼さを残している印象を受けるけれども、それ自体は直ちに責められるようなことではないから、そこで自信を失う必要はありません。
だけれどもね、反発して、相手を逆に見下すような傾向が芽生え始めているとしたら、そういった攻撃性を「矯める」理性的な余裕を持ってください。それが貴方にとって、精神的な成長だから。

ここで理解してほしいのは、相手が求めているのは「子供っぽい答え」じゃなく「大人っぽい答え」。「大人っぽい」とは社会性を年齢相応に持っていることであり、この場合は、試験と謂えども社会行為であり特有の目的と評価を持っていてそれは手段に於いて妥当だと認め受け入れられる精神性のことです。
これをできないことは、引いては「他者」理解に乏しいと受け取られかねないのであって、「自己」と「他者」の適切な関係を求める我々の社会の成員として理想的ではないと受け取られかねない、ということです。
「僕が」「思う」ではなく、(質問者である)「貴方が」そう「考える」なら、"それについて"、「私は」こう「考えます」と言わなければ駄目なんだよ。
すごく大人っぽいでしょ?
もちろん、『正直に答える』んだよ。
自分で考えたことではないことを述べちゃ駄目なんだよ。自分の考えを相手に伝わるように適切に述べるんだよ。
でも、そんなことはアンチョコとしては教えないんです。教えること自体が設問に反するからです。これはね、ちちんぷいぷい、「指摘した途端に対象物が消えちゃう」不思議な問題なんです。だから、構造把握が必要と言うことであり、それには発達した抽象的理解力が必要であり、メタ認知が求められているということです。
"だから"エリートの選抜問題たり得るわけです。
普通の子にもわかるなら、質問する意味がない(笑)

女王の質問が有名だけれど、本来、エリートに求められる機知ってのは、そういうことだよ。

だから、一般に考えられているよりも遥かに難しい。あまりに難しすぎて、ほとんどができない。だから、それを以て選抜するのが困難である。その結果、この手の問題が軽視される。質問者からも、被質問者からも。
ってことになっているんじゃないかなぁと思う。