実は言うほど珍しくはない。だって子どもってそんなもんだから、言うこと聞くとは限らない。

それは計算の簡略化のために意識してそうするんだよ※。
だから、操作を独立に考えられる意味で抽象性にに優れていると言っていいけれど☟、別に珍しいというほどではない。そういう子はクラスにぼちぼちいるんじゃないかな(そんなこといちいち先生に言わないよ、面倒なだけでしょ)。
むしろ心理的なハードルであって、ルールに従いたい子の中にはルールに集中してゆく子も居るし、反対に集中が好い意味でぼやけて手続きの意味を考える子も居るし※。その日の調子もあるからな。能力と資質とバイオリズムをごっちゃにして、能力ばかり語っても仕方がない(それが近代的教育の特徴だけれど、調子も大きいよ)。
※本当は十進法の理解の先に筆算の理解があって欲しいと望むことから、桁ごとの計算に拘るのであるが(理解の仕方がここで逆になっているが)、それは教える方の勝手な思惑であって、教わる方はゆるゆるであっても不思議じゃない程度の話である。ただ、中国式であれインド式であれ、よくあるマトリックス方式の簡便計算法に近いものがある。

 ☞両手を使った計算だって(それは一種の計算機だから)、その意味で抽象性に優れている。

 


後者を評価すると、前者を過小評価しかねないので、「まぁ、こんな子もおるんやから、そんな子もおるやろなぁ」くらいの良い加減な態度がちょうどよかったりする。
子どもってそんなもんやで(それが高じると、「子どもはみんな天才」となる。いや、子どもってそんなもんやで笑)

※おそらく大抵は、「なんでこれじゃアカンのや」と思っている。


もしかしたら先生に在りがちで、それだけしか見ないからかもしれないね。
算数の教育は、歴史的な数学の発展にしたがって(抽象化される以前のこととして)教えたほうが上手くゆくとかねてから思っているのであるが(だから、掛け算の前に割り算を具体物の分割を以て教える)、操作の習熟と概念の獲得の2本柱でゆくとき、どうもこれらがごっちゃになって、操作抽象性と概念抽象性の見分けがつかなくなるらしい。

 

子どもにとって「遊び」は大事。そもそもそこらへん子どもは緩い。

 科学的じゃなく、経験的なんです。