視覚優位であること、リーダブルであること

kimihikohiraoka.hatenablog.com

われらが罪は頑だ、われらが悔は見せかけだ。
思惑あっての告白だ、
だから早速いい気になって、泥濘道ぬかるみへ引返す、
空涙、心の汚はさっぱりと洗い流した気になって。
(堀口訳,p.23)

 原文は読めないので、この文章の構造を考えてみる。なお、ルビは私。


(1)われらが罪は頑だ、われらが悔は見せかけだ。

(2)思惑あっての告白だ、だから早速いい気になって、泥濘道ぬかるみへ引返す、
空涙、心の汚はさっぱりと洗い流した気になって。


この文章は「意味」が構造上の役割を果たすらしい。即ち、(2)の冒頭にある『思惑あっての告白だ』が(1)の意味上は分けられている構成をとっているらしい。
敷衍である。だから、文の構造上は(1)(2)だから、文の意味上は、[1][2]に分けられる。


[1]われらが罪は頑だ、われらが悔は見せかけだ。思惑あっての告白だ


これだけだとわからないので、「敷衍」を表記する。


[1]われらが罪は頑だ(けれども)われらが悔は見せかけだ。
(即ち、)(われらが)思惑あっての(われらが)告白


詳しくはないが、「詩」とはこのような視覚的技巧なのかと感嘆した。
《われらがー思惑ーわれらが》の▽と《われらがーけれどもーわれらが》の△が重なることによって、それぞれの述語『みせかけ』と『告白』が重なる。
これは美術的であり、すなわち絵画的だ。

『思惑』をたった一言の《けれども》で説明しつつ、それを隠して、対照性を浮かび上がらせて(『罪』と『悔』の客観/主観のコントラスト、『頑な』と『見せかけ』の重厚/軽薄のコントラスト、『罪』が『頑な』であることと『悔』が『見せかけ』であることの受動/能動のコントラスト)、叙事性を強調する。
まずは観察を置いて、とりあえず評価を退ける。
評価を与えたとき、評価を与えることと意味を構成することが同値である、となっているのが、これは語彙(体系)である。語彙とは、或る言葉が、事前に在る或る語群に位置(関係)づけられてはじめて意味を付与されることである。即ち、『思惑』は『罪』と『悔』からなる一群の一である。それはキリスト教であるだろうし、読む限りそれには否定的なニュアンスが込められている。またそれは形容であるから、したがって、『告白』もキリスト教の語彙でありまた否定的なニュアンスがここでは付加されている。


自分からすると、前段だけででこれだけ読み込める内容を簡潔に込められるのは見事と言うほかないが、詩的というよりも、言葉を惜しんで絵画的であるのは俳句的であるし、また、漢詩的であるように感じたのは、気のせいだろうか。

【比較参照】

 蚊帳の隅 一つはずして 月見かな
  (「一句のなかに四角と三角と丸を詠み込んで見よ」)

加賀の千代女(加賀國松任の俳人)にまつわる歴史逸話、朝顔に(朝かほに、句屏風、俳画)、鬼瓦、蚊帳のなか、朝鮮通信使、とは(2009.7.3): 歴史散歩とサイエンスの話題

 

『けれども』が前文と後文を照らして逆さとなっていることから、盃(逆月、否定の『不』)と見るなら、〇が隠れている。△の為す一角に〇が隠れて、☐四面なことを言う。洒落である。