人生を「やり直す」ために小学生の算数から始めて
の3冊に着手していろいろと感動している。
一番上のドリルは「読解」のなんたるかを直観的に把握するのにお誂え向きで、「原理」「制限」「表現(傾向)」から全体を何度も、都度見回して要素間の関係を発見し、(所与の「表現」を)再構成してゆく。
そのために、発見した事柄や、気になった事柄をメモするために、ノートを脇に置いて進めたらよい。
真ん中のドリルは絵画のセンスが求められるのではない。これにセンスがあるとしたら、それは実は「反知能的」センスだ。なぜなら、ここで真に行うべきなのは、ゲシュタルトに関する訓練だからだ。すなわち、我々が或る図形をみるとき、すでにひとつの「意味(の集合)」として把握してしまっているところ、それを操作群を用いて分解する必要があるのだ。
知能指数を上げるにはそんなわけにはゆかない。
その画を構成する特徴を疎かにも把握して、「イメージ」(表象意味の結合)を見出さなければならない。すべての情報を等価に扱うわけにはゆかず、そこで求められているのは「それは捨象して構わない」とする分別だ。知能指数とはその構成からして「社会的能力」であって認知能力がそれに付随して意味づけられるに過ぎない(「箱の中の象」のパラドックス。ヒトラーのパラドックス※)。花瓶に蠅が止まっていようが花瓶は「花瓶」であって、隅の小さな蠅と中心に活けられたガーベラを同じ扱いにするわけにはゆかない。他人に説明するときに、蠅の止まった花瓶にガーベラをさしました、というのは、大抵不適切な説明だ(ただし、知能が知能であるのは、それが学習によって得られるのではなく、発達によって得られると考えるところにあるのだろう。「人格」とは何かを裏から突き付けている)。
このドリルではそうでない。
画面いっぱいに均一に価値が広がっている。約束されているのは斉一であって中心ではなく、 機能であって意味ではない。ここでは「蠅」も「ガーベラ」も位置の集合に過ぎず等価だ。
ただ、発達段階の児童にあっては、「立体視」「俯瞰視」の獲得も成長の果実なので、上記の見方を強制するものではない。
私の場合は、問題を難しくして、3軸を回転させている。左右、上下、前後がひっくり返る。
※高知能のヒトラーがなぜ「人生の落伍者」であり、またかつ、なぜエリートから畏怖とある種の尊敬を以て迎えられたのか。
さて、一番下のドリルである。これがすごくよいのだ。
まず【はじめに(おうちのかたへ)】を読む。
【はじめに(おうちのかたへ)】
主張(述語) | 主眼 | 主題 | 主調(副詞) | |
第1段階 | 身に付く | 計算力(が) | きまり | きちんと |
第2段階 | 触れられる | 観察力(で) | 規則性・法則性 | 注意深く |
第3段階 | 身に付く | 思考力(が) | 数の不思議さ | (思う)ように |
第4段階 | 意欲がわく | 洞察力(で) | 応用・観点 | より・さらに |
意訳すると、上の表のようにまとめられると思う。「主張」「主眼」「主題」「主調」とあるが、それぞれ。。。
算数の学習の目的に、「数概念の把握(感得)」と「記号の操作(習熟)」があって、これらは互いに支えあっているはずである。
一番上のドリルで、「読解」を直観的に把握したら、これに進むとよいのではなかろうか。「読解」を深めることができると思う。
最初は分配法則を使った『中学校3年生相当』の問題が出てきて(このドリルは9歳以上が対象とされており、小学校4年生からを想定して、中学受験を意識しているのだろう)、「前倒し」にげんなりしてしまったのだが※、それはそれとして進めると、次々に良問が表れてびっくりしたのである。
※自分自身の一つの目標として「より理解の容易な概念で捉えeasilize、説明し直す」ことがある(より理解の難しい概念を使うと、反対に、説明が単純化simplizeしてしまうことがある)。
さて問題を👇のように言い換える。
[問題3] |
[文構造]
010 自然数から
150 ↳2m個の
111 並んだ
140 ↳昇順に
112 選び出して
130 ↳任意にm個の数を
113 並べ直した
120 ↳降順に
211 見比べて
221 ↳残った数と
212 出して
222 ↳差を
222 ↳並んだ順番が同じ数の
213 積算せよ
ややこしいことになった(まだ整理の途中なので、なおのこと見苦しい)。
なぜかというと、「操作」(或いは「為す」)と「景色(全景)」(或いは「在る」)が同時に表現されているからである。
なぜこうなるのか。
ここで問われているのは、「数構造に可能な見方」であるからで、そのような関係を以て見てなお数構造が不変であるさまを見て取っているからに過ぎない。
それを「操作」の語彙から説明すると「可能」であり、「全景」の語彙から説明すると「任意」であって、前者を統合の論理、後者を分析の論理と呼んで差し支えないのではないかと思う。数学は分析の論理であるので every ではなく all の語彙を以て説明されるのであった。
したがって、ここで真に求められている説明は、(数構造故に)「2m個の自然数で等しく見られる(関係)」「任意(性)」であるところの分析(論理)である。
それが直観でないために、説明に順序が付随するに過ぎない。
2m個の自然数を昇順に並べた数列{ an | a(t)n-t < a(t)n-t+1 ただし 1 ≦ n ≦ 2(m-t) }の下半分の小さい数字の集まりをs群(a1≦an≦am-t)、上半分の大きい数字の集まりをS群(am-t+1≦an≦a2(m-t))とする。
ここで、任意に選んで降順に並べたm個の数の列をG、残った数列を便宜的にgと呼ぶ。
[Gとgを考えるにあっては、a(t)n-tから2数を適切に選んだならば、t→t+1を解除する(初期値はt=0)こととする。]
このとき、S群から2数を選ぶと、以降gが構成できなくなるため矛盾し、s群から2数選ぶと以降Gが構成できなくなり矛盾するため、S群とs群から1数ずつ選ぶ必要があるので、その必要を満たすことを以て適切であるとする。
そうすると、Gの和とgの和の差が求める数である。
ここで重要なのは、「操作」がどうであれ「景色」(この場合、行列)に変化がないということであって、すなわち、問題文中の『m個を選び出し、残りの数と見比べ』(操作的には、m個の新たな数列を別途構成して、2列の数列を並記し)ても「2個ずつを選び出して、都度見比べ」ても結果として同じことであり※、機能的に同等ということに気付くことである。
※和の交換法則が相当する。すなわち、(a-b)+(c-d)=(a+c)-(b+d)
つまり、問題文中の指示を読み替える(別の語彙で構成し直す)必要があったのだ。
これが「読解」でなくて何であろう。
[まとめ]
〇文章の指示通りにどのように選んでも(「操作1」)、元の数列の上半分に在る或る数と下半分に在る或る数との差(「操作2」)を積算することとなる。
〇反対に、「操作2」から数列を構成して比較しても(行列を構成しても)そこから「操作1」を導くことができる。
〇元の数列から「操作2」を施すにあたって、それで構成する行列による制限があるため、それへの違背が、(構成上の)矛盾(背理)である。
なお、
〇上述[]で説明されることがeveryであり、その任意性がallである。