ウィトゲンシュタイン最後の思考―確実性と偶然性の邂逅

論理、科学、規範のカテゴリーが、存在論と認識論を巡って(この間に実在論があって※)、ごちゃごちゃなのだ。
そのうえで、規範から、政治を呼び込んでいる。

※「実存主義」なんてものは、ベースが社会的実在論で、普遍論争(就中、救済論)を引き継いだに過ぎない。そのホーリズムが、ロマン主義でドライブされ、「個人」をプッシュアップしただけのことである(「個人」を彫琢したのではない。もともとその程度の「個人」ならキリスト教によって彫琢されていた)。

実存主義の本質はロマン主義にある。「本質」を否定するのは、ホーリズムだからである。

markovproperty.hatenadiary.com

裁判規範となると、純粋に技術論だから、その「哲学」は役に立たないのだ。
それが混乱の原因である。

立法技術から言えば、熊の駆除騒動と一緒である。一方が尊厳ある人間で、一方が獣たる熊であっても。熊騒動の発端は、「対象」と「客体」をごっちゃにするとき、「主体」性(或いは、主観的な平等性)をもたせたことにある(もちろん、人間のみが主体であって、人間以外の動物は主体となり得ない)。これは環境省はわかっていて立法当初から注意喚起していたが、誤解されたというよりも、イデオロギーを抱いた運動家に利用された。

裁判規範が道徳規範と「違う」と言われるのはそういうことである。


これがさらにややこしいことには、

発達心理学上は(あくまで、その年齢に応じて)、

  1. 客観主義(ルール主義)
  2. 主観主義

の比較なら、2の方がより成熟した態度であって、1が「幼稚」と見做されるのだ。

つまり、発達を巡る人格侵害のバリエーションには、

  1. 性格が悪い
  2. 幼稚である

が双璧なのであるが、運動家は、2を絡ませてくるのであった(一方の1は、濱中が検証した高卒と大卒の能力比較に関してであって、人格結合を尊ぶ高卒人材が、それを尊ばない大卒人材に対する違和感と忌避感と自己疎外感と組織内の政治的行動と抑圧即ハラスメントのために使う。人格結合はハラスメントしか実効を担保する統治手段を持たないのだ)。
(実際は、係る主張が、社会的な複雑さと特にそれを乗り越えてきた戦後の社会経験を短絡して、正反対である。要は、発達とオカルトがごちゃごちゃである※)。

※ひとつの見方として、戦前の系譜を相対化できているかが、ある。日本の「戦後」は、所謂「悔恨共同体」と嘯いた「理想的な戦前」主義であって、戦勝国の戦後は、実証主義の克服であった。つまり、複雑さを内包して、ルール的(技術主義)、なのである。それを存在論に帰着させているなら、戦前のオカルトの系譜に連なることを疑ってよい。戦後を、クリアに、切り取ってしまっているのは、要注意である。戦後は、決して「悔恨の共同体」ではないが、複雑さを前にして「困難の共同体」である。そのとき、(複雑さを、技術的に無効とするのではなく、無視して)あまりにクリアカットなのは、「何かが少しおかしい」ということである。


むしろ、ウィトゲンシュタインで、今日的な意味で、それは「性教育で」ということなのだが、興味深いのは、

科学哲学 44-1(2011)ウィトゲンシュタイン最後の思考―確実性と偶然性の邂逅-山田圭一著(勁草書房,2009年刊)野村恭史

かもしれないと思う。

すなわち、私は、早急に、発達段階の早期の性教育の導入をすべきであると信じているのだが、私もいい加減それなりの年齢であるので、危惧する向きの意図もわかる。

可能性の問題なのだ。

もっと、言えば、戦前のパターナリズムを否定した、自由な社会であるがゆえの、平等な主体を巡る可能性の問題なのだ(論争技術的には、限界事例の挙証である※)。だから、一見、政治的な態度に見えて、「結果として」それを選択している、戦後的な技術主義が見て取れる。つまり、狂信的イデオロギー(存在の性質に帰着されるイデオロギー)ではなく、いわば、技術的イデオロギー(認識上のイデオロギー)である。彼らの自認識は「常識的理解」である。

だから、非常に複雑なロジック構成をとるのだが、一見、そうとは見えない。ファッショナブルなのも特徴的である。見た目に纏っている文化ファッションで、一見そうとは見えないのだ。

※それが可能性を通じて行われるので、〈可能〉から〈必然〉を導いたアンセルムスに倣って、〈可能性〉から〈〉を導く「   のアンセルムス」と呼びたいところである。それくらいには、複雑なロジック構成を採っている。すなわち、〈性〉の分だけ、数段、複雑な構成を採っているのだ。

彼らの主意は、結果論として(統計的な意味で)犠牲者がでるとしても、動機としてそれを選択できないということに尽きる。倫理的な態度選好である。

しかし、私は、「私は性格が悪い」と宣言したうえで、トリアージ的な救済を求めるのであった。それでも救われる人間が居る。救われるべき人間が救われるべきである。
これも、言うまでもなく、選好的な倫理的な態度であって、社会がその態度を決定するには、民主的に行わざるを得ない。

単に、私は、「常識的」と自認する人たちを、性格が悪いとも幼稚とも、言わないだけである。

 

「教養」ってもともとそうだよ。ただ、それが古くは貴族、やがて「市民」のものになっただけで、つまり、ここでいう「市民」とは西欧的な身分で、限定された人たちなんだけれど、広範な教育制度の整備により、一般的になっただけで。

サロンの存在を考えたときに、むしろ「教養」≠「世間知」と考えるからこじれるのであって。ツールでそのまま正解ですよ。

日本の場合、特に、「国民総侍」という不思議な感慨を違和感なく持てるので、村落の「世間知」と城内の「有職故実」がごっちゃになっている気がするけれど。

「世間」が違うと話が通じなかったし、そもそも興味がなかった。
「教養」はそれら「世間」を一気通貫して社会を広げただけで、ツールに違いはない。

日本の場合、さらに、

「天下」という考え方もあって、これが習合的だから、ややこしくなる。
本の学校から「共立」が消えたからわからないけれど、そもそも、学校で教える教養の最たるものは、こちらでしたし、明治の頃のエリートは、大学エリートもいたけれど、双璧でしたからね。そういう歴史自体がほぼ忘れられている。

歴史を忘れた教養なんて、ないんだけれどね。
日本の場合、昭和期の学校教育を通じた生活運動に流れて、思想性が埋没したってのもあるけれど。

知らないうちに、教養の影響を受けてますよ。
そうして知らないうちに「或る教養」を語っているかもしれないので、なんとも言えんわね。

だから、「教養」なんて、或る社会(モデル)を想定して殊さらメンバーシップを確認しあっているだけで、ツールなんですよ。