上杉研究のとっかかりとしては良い

 

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 原田武夫氏って、なんか聞いたことあるなぁと思ったら、あの原田武夫氏だったのか。
そうすると👇の前書きがへんちくりんなのもなんとなく合点がゆく。
この方が外務省を辞めたあとに手掛けたメルマガ(無料版)を読んだことがある。『東京グルメ 倶楽部』と銘打ったのだったか?仕事でも使っている、大事な人を案内しても失礼のない、通なお店を紹介するって企画があって、興味深かった。
上杉は資料が少ないのか、この人の書き方なのか、なんだか物語風だけれど、金沢時代は7年間首席だったことや、チフスにかかったこと、穂積八束が熱心に会いに来たことなどを知れてよかった。四高が『ナンバースクール筆頭』な理由が森有礼の祝辞だけではわからないし、精緻に積み上げるって感じではないけれど、なにしろドイツ研修の経験があって、カールシュミットを訳したこともある著者だから期待が高まる。
イェリネックの学説受容が日本内で別れた理由や日独間の差(いずれカールシュミットに行き着く)がわかると面白い。
上杉と美濃部のしのぎを削る関係は、岸と我妻どころではない。

甦る上杉慎吉 天皇主権説という名の亡霊

甦る上杉慎吉 天皇主権説という名の亡霊

 

 

白骨街道魔伝
5つ星のうち4.0  日出ずる国を幸う。
2016年9月14日に日本でレビュー済み

後に上杉は留学し、国家法人説の師であるドイツのゲオク・イエリネック に師事するが、著者によればイエリネックは「主権的公権システム」という「公法秩序」 を明らかにし、「個人」との関係で権利を有する代わりに義務を負うことで、それまで国 家権力によって襲われ、奪われるだけだった個人による逆襲を可能にする仕掛けを仕 込んだ、と解釈する。一方、上杉は「国家法人説」に潜む群衆による統治である民主主 義的発展を拒んだ。 

「一行説明」をしてしまえば、まさにこのとおりなのだけれど、くらくらする。
 これをきちんと理解するには、相当の前提が必要になると思う。

ⅰ 科学主義ではなく、経験主義であること

ⅱ にもかかわらず、普遍的妥当性を持った科学的な口調で話されること
☞「生成文法」生成の経緯との対比

ⅲ 当時何が経験されていたかというと、ドイツ統一事業がそれであること。
憲法学者木村草太の説明によると)その中で、君主主権と国民主権の相克があって、統一のためにはどちらものぞましくなかったが、反対に国家主権は玉虫色で、「中央」と「地方」のどちらにも都合がよかったこと
アメリカ建国との類比『憲法改正とは何かーアメリ改憲史から考える』

ⅳ 「権力」は「定義」でないこと(ⅰ)
コンドルセ的トリレンマ(投票のパラドックス)とアロー的「独裁者」から類推できる、発端としての神の御業『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』※1

ⅴ 近代社会とは、ポストキリスト教社会であって、「無限」と「分割」の内包(帰属)関係を神と人間の関係から社会と人間の関係に置き換えたこと。つまり「社会」が(神に変わる)最大のこととして、国際社会にあっては主権国家群、国内社会においては国家主権を帰結したこと。
☞アンセルムスの議論の伝統にしたがったゲーデルによる神の存在証明『ノイマンゲーデルチューリング
☞自然を改造することの是非『魔の山

ⅵ そのような思潮において社会進化論がうけいれられた一方で、それを留保する契機をもとめたこと
穂積八束の兄穂積陳重社会進化論を日本に紹介した人物であったが、八束は陳重と異なり進歩派ではなかった(学統としてはドイツ学派に連なり、政治態度としては「留保派」と言ってよいような慎重派で非革新的、学問態度としてはヨーロッパ実証的※2で、外部事実の挿入をヨシとしなかった点は観念的ー後の、議会政治に長けた、どちらかというと素朴実在的な、美濃部達吉との論争の遠因※3) 
☞当時の学説の総覧をして、今日的な標準的テキストの体裁を採った北一輝(『純正~』)『北一輝ー国家と進化』

※1 まさに、現代の物理学者と同じ情熱を持って議論された、いわば「グランドセオリー」の構想を踏まえて、その生成或いは具体例として国家を企図した(観念的であるヨーロッパの学識を受け継ぎなお、運動を展開したのは、また後の話)

※2 興味深いのは、穂積家が伊達家の家臣である武家であることもさりながらー上杉も武家出身であるー、二人の父である『鈴木重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物である。明治維新後、重麿の子である重樹は穂積姓に復し、父の学問を継ぎ、藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ』(Wikipedia『穂積家(伊予国)』)ことで、『国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎古義学荻生徂徠古文辞学の方法論より多大な影響を受けている。』(wikipedia国学』)ことから、テキストに拘り厳密な解釈を求める穂積と、いかにも日本的な「好い加減」な態度である美濃部の対立とも考えられるかもしれない

※3 上杉の出自を引いて著者は『森鴎外』と並べるが、むしろ、美濃部が漢方医の息子であることも踏まえて、当時の医学状況(漢学を取り込んで優位を保った和学に対する一方での蘭学の劣位の伝統と蘭学に連なりつつもやがてそれを脱した洋楽の革新)を云々するとよかったのではないか(森はその論争に懸命になっていたー森はとにかく論争的な男であった)。

※4 ちなみに、美濃部が師事した一木喜徳郎(天皇機関説を提唱。)は『父である岡田良一郎と同様に報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた』(Wikipedia『一木喜徳郎』)人で、祖父である岡田良一郎は『二宮尊徳の弟子』(Wikipedia岡田良一郎』)なのだけれど、なにしろ二宮尊徳は独学の人で、かなりの読書家であったらしいが、それらがどれほど俗流の解釈であったかわからないうえに、師のいなかった当人も学問的厳密性をおそらく欠いているだろうし、実務志向でそれほど(従前の)教本に拘りもなかったようである。実際的な人で、具体的であることの詳細さについては、余人の及びもつかないほどの「変わった人」であったらしい。

 

ja.wikipedia.org

コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年9月17日 - 1794年3月29日)は、18世紀フランスの数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人と目されている。(略)陪審定理や投票の逆理(コンドルセのパラドクス)など近代民主主義の原理を数学を用いて考察したことで知られる。

(略)テュルゴーの改革は挫折に終わったが、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想はその後深化を遂げ、1780年代に「道徳政治科学の数学化」もしくは「社会数学」という学問プロジェクトに着手することとなる。道徳政治科学とは、当時まだ明確な学問的輪郭を与えられていなかった経済学の源流の一つであり、啓蒙の知識人達に共有されていた問題関心であるばかりか数学者達の関心をも集めていた。※5

ニコラ・ド・コンドルセ - Wikipedia

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大人のための偉人伝 (新潮選書)

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※5 『この著作で彼はルソーの直接民主制を否定し、唯一の社会的義務とは、一般の「意志」に従うことではなく一般の「理性」に従うことだと論じて間接選挙制を支持している』とあるのも興味深くて、上杉が、美濃部と議会での優勢を競って敗れた後に、草の根民主主義運動を展開し※6、やがて彼の後進が議会を制したことを思い出す。

※6 軍人と警察官ならば、警察官は内務官僚であり、軍人こそが「(自分たちと同じ)国民の代表」だったのだ(☞ゴーストップ事件 - Wikipedia)。警察官が国政の一部とみなされたならば、国会/町村会の二層関係にも着目せざるを得ない。