オールドリベラルの限界                              『虎に翼』から抜け落ちた公権/人権論

寅子トモコが五黄の寅年生まれだとすると、大正5年だから、明治31年の民法改正後なんだけれどね。それと民法民事訴訟法がごっちゃになっている。

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改正前民法 

日本民法註釈 第1巻 法例・人事編 (日本法典全書 ; 第9-13編) , 坪谷善四郎 (水哉) 著, 城数馬 閲 , 博文館 , 明24 - 国立国会図書館デジタルコレクション

(あの「博文館」である。)

改正後民法

改正民法講義,細井重久,明31.7 - 国立国会図書館デジタルコレクション

日本民法註釈 : 改正 , 大正10 - 国立国会図書館デジタルコレクション

「家」制度から説明されているが(これには文脈形成上の政治的意味がある。)、むしろ、公権規定による義務と権利の関係から当時は理解され、改正前においてすら、男女同権の議論から、(西欧においては男女同権と主張されるが)西欧において規定される婚姻婦の"まったくの無能力"と比べて(日本は男尊女卑であるが、婚姻婦については)日本は「能力が制限されている」と抗弁している。

改正後は、義務規定に続いて、(当時はまだ夫または女性戸主が家主だったらしいが)夫の原則的な財産管理権が認められると同時に、「権利の濫用」を排した、妻の財産保護に焦点がおかれている。

妻の財産管理に関しては、歴史的に形成された社会的な違いが大きい。

むしろ、ドラマでは、(家制度には触れず)権利と保護は異なることが強調されていた意味合いが大きい。ここでは「権利」とされるが、敗戦を挟むので、人権と公権の違いを想起させ、それは(政治的な理解ではなく)正しい理解であると思う。

 

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たぶん、「家」制度に着目している人たちは、至極単純に、戦前の公権制度を知らないから、人権を理解できないのだろうと思う。

だから、「被害」ばかりに着目して保護、救済へと注意が向かうが、ドラマでは、「権利と保護は異なる」と明言した。こういった鍵と成る言葉に、そもそも反応できない(或いは、不満を持つ乃至募らす)。

これは人権を考える時に、大いに考えさせられることである。

オールドリベラルの限界                           『虎に翼』から抜け落ちた公権/人権論

女性の権利は、なぜ、日本の上杉慎吉によって、唯一、革命的に進展したのか。

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天皇機関説は、

  1. 国家主権説
  2. 国家法人説

を敢えて混同することで、天皇主権説との対立を避けた議論展開であって(「天皇機関説天皇主権説」はそもそも議論が成立しない。)、意味不明なものに聞こえる。

これは、近代主義

  1. 近代国家主義
  2. 近代普遍主義

の両面を持つからで、それは、近世社会の後を受けた「ポストキリスト教社会」であるためである(それをして「遺産を受け継いでいる」と謂う)。

このとき、近代国家成立には、

  1. 社会進化論
  2. 歴史法学

が技術的には必要であった。すなわち、神に替わって「社会」自身が「善の器」となることが要請されたのである。このとき、人々は、善の実現のために、神を直接必要とせずに済むようになった次第である(前段に、宇宙に普遍的に実在する理神論が起こったー神は社会にも普遍的に実在する)。

 

自由に関して言えば、最初の人類であるアダムは完全な自由であったが、それは生存に関する自由であって、「近代的自由」ではなかった。「近代的自由」は、ホッブスの想定にあるリヴァイアサンである。それはローマ的自由=部族的自由(拡大された生存的自由)と区別される。

これを踏まえてテキストを読むと、公権の言わんとすることが朧気ながら見えてくる。
近代国家とはローマ帝国ではないのであった。

東京帝国大学法科[注 4]に学び、美濃部達吉および吉野作造に師事[4]

中島重 - Wikipedia

著者の中島は当時に在って、もっともリベラルであったと言えるかもしれない。
しかし、それでもなお、「公権主義者」であった。

そのことに注意が要る。


上杉は、イェリネックに学んだ大陸合理主義に立つことで、イギリス経験論には見当たらない「男女平等」を、公権として、革命的に主張できたのである。

上杉の師はもちろん、穂積八束で、穂積重遠の叔父である。穂積重遠の父が穂積八束の兄穂積陳重で、社会進化論を日本に紹介した法学者である。
穂積八束が「民法出でて忠孝滅ぶ」と言ったのは、確かに士族出身ゆえの「忠孝」という文化的レトリックであるが、彼らがフランス民法と心中するつもりでなかったことを踏まえれば※、そんなに簡単な話ではない。上杉の終生の師であった穂積八束はドイツ法学の泰斗であった。

※『虎に翼』でいう「旧民法」はどれを言うのか。ヨーロッパの模倣であった民法のことか。第二憲法と言われる民法の制定は、大日本国憲法制定以上の熱を帯びたのであり(憲法制定よりむしろ国会開設の方が熱心でなかったか。日本の明治革命は、参政権をめぐる、美濃部ような貧乏庶民を旗本にする「旗本(化;サムライ化)革命」であった。これが「革命でない」とは端的にプロパガンダである。)、民法典論争から始めないとよくわからないのであった。

 

史上名高い穂積重遠の著作。

離婚制度の研究, 穂積重遠 著, 大正13 - 国立国会図書館デジタルコレクション

戦争ト契約, 穂積重遠 著, 大正5 - 国立国会図書館デジタルコレクション

『離婚制度の研究』が『虎に翼』の前半のテーマである「男女同権」にかかっており、『戦争ト契約』がおそらく後半のクライマックスと成る「原爆の国際法違反」にかかってくる。

哺乳綱食肉目イヌ科タヌキ属

食肉目 - Wikipedia

預り金とは

預り金とは|勘定科目の意味と仕訳|freee税理士検索

流動負債勘定 内容
支払手形 営業上の買掛債務の支払いのために振り出した約束手形や、引き受けた為替手形
買掛金 原材料や商品を購入することによって生じた仕入先に対する債務
前受金 商品、製品の販売代金の前受けした金額
短期借受金 銀行から借り入れた設備資金、運転資金や個人からの借入金、取引先からの借入金などのうち、1年以内に返済予定のもの
未払金 主な営業取引から生じる債務である買掛金以外の固定資産の購入代金や、有価証券の購入代金の未払額
未払法人税 法人税道府県民税、事業税、市町村民税の未払額
借受金 原因不明の入金や最終金額が確定していない入金
預り金 報酬、給与から差し引いた源泉所得税、住民税など
営業上生じた短期の預り保証金
未払費用 賃金、給料、利息、賃借料の支払期日到来前の未払額
前受収益 地代、家賃、利息などの前受金額
賞与引当金 次期になって支払う予定の賞与の当期負担の見積額

 

熱伝導の異方性と熱を運ぶ粒子の「フォノン」の指向性

へー。

テスラバルブみたいだねぇ。

 

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テスラバルブって唐草模様みたいだもんねぇ。

 

カントとフランス人

 

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ブラウワーはポアンカレに影響を受けたらしくて

これを読むと、カントが深く関係している。

おもしろいところでは、アインシュタインポアンカレに影響を受けたのではないか、ということで、「奇跡の年」の前年にポアンカレの論文というか檄文を読んで、熱に浮かされるような雰囲気だったという。ポアンカレはそこで「絶対時間は存在しない」と明言した。

ポアンカレのキーワードは「規約」である。「規約」に真偽は成立しないとポアンカレは言う。そして、「幾何学の公理は規約」と言う。

確率論についても「規約」を持ち出しが、それについては、

比較すると興味ぶかい。

ポアンカレブルバキから見たら、どういう評価と解釈に成るのか興味深い。


訳者プロフィール

www.msz.co.jp

ポアンカレは本書の読者に暗黙の前提を置いているのだ.アインシュタインと友人たちはその前提条件を満たしていた.しかし、訳者が本書を読んで欲しいと願っている日本の若い読者たちは,学校教育でカントの哲学を学んでいない(と思う).

P.305,暗黙の前提,訳者による解説とあとがき,『科学と仮説』

言われてますよ。

実は、アインシュタイン自身は、何と言っていたか。
神だけ、、、 に言及していたのか?

ですから、二つの質点のあらゆる可能な位置は六次元の連続体を形づくるわけで、一つの質点の場合におけるような三次元のものではありません。そこで再び一階だけ昇って、量子物理学に来ますと、やはり六次元連続体のなかでの確率波を得るので、一つの粒子の場合におけるような三次元連続体のなかでのそれではありません。それで同様に、三、四、及びそれ以上の粒子に対しては、確率波は九、十二、及びそれ以上の次元をもつ連続体における函数になるわけです。
 この事は明らかに、確率波なるものが、私たちの三次元空間のなかに存在しかつ広がっている電磁波や万有引力の場に比べて遥かに抽象的であることを示しています。つまり多次元の連続波が確率波の背景となっているので、粒子がひとつしかない場合だけに、その次元の数が物理空間の次元数に等しくなるのです。それで、確率波の唯一の物理的意味は、一つ並びに沢山の粒子の場合にそれによって私たちが関知し得る統計的疑問に答えられるということであります。このようにして、例えば、一つの電子に対して、ある特殊な場所でこれに出遇うという確率を尋ねることができるのでした。また二つの粒子に対しては、与えられた時刻に二つの一定の場所で、この二つの粒子に出偶う確率がどれ程であるかということを、問題とすることができるのでした。

(略)

—PP.184-185,確率波,Ⅳ量子,『物理学はいかに創られたか』

科学はまさに法則の集積でもなければ、まとまりのない事実のカタログでもありません。それは人間精神のひとつの創造物であって、それが自由に発明した思想や観念うぃ含んでいます。物理学の理論は実在の一つの形像を形づくって、それと感覚的印象の広い世界との連関を確立しようとしています。

(略)

量子論は再び私たちの新しいかつ本質的な性質を創造しました。連続性の代わりに、それが不連続で置き換えられました。個々の物を支配する法則の代わりに確率の法則が現れました。

(略)

光は波でしょうか、または光子の驟雨でしょうか。電子線は素粒子の驟雨でしょうか、または波でしょうか。これらの根本的疑問が実験によって物理学の上に解決を強要します。これらに答えようとするのには、私たちは空間及び時間における出来事として原子の現象を記述することを見捨てなければなりません。そして私たちは古い力学的見解からなお一層後退しなければなりません。量子力学は個々のものではなく、集群を支配する法則を形づくってゆきます。性質ではなく、確率が記述され、体系の将来を明らかにする法則ではなく、確率の時間による変化を支配し、従って個々のものの大きな集合に関する法則が立てられます。

—PP.189-194,物理学と実在,Ⅳ量子,『物理学はいかに創られたか』

これは、アインシュタインも存命中であった昭和14年(1939年)10月、アインシュタインの来日公演(1922年)で通訳を任された石原純に翻訳されたもので、「訳者序文」に日付があるが、原著がいつ書かれたかは定かではない。石原は留学中にアインシュタインに学んだこともあった。

石原純 - Wikipedia

神はサイコロを振らない」と言うときの私たちの俗説(的理解)がいかにどうでもよいかがわかるかもしれない。
序文でアインシュタインは「物理学並びに哲学的思想に興味を抱く人々を望む」と明言している。この哲学は(かつて哲学=アリストテレスであったように、)カントのことであると思う。

そして、実のところ、アインシュタインの最大のライバルであったフォン・ノイマンは、『数学者』でこれに応えていると思う(それには数学基礎論ヒルベルト・プログラムを知らなければならないが、それ以前に、カントとカント・プログラムを知らなければならない)。

彼らの会話はこのようにして為されるのだ。