フェルマータ

フェルマータ - Wikipedia


http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kikaku/2015/20160312_war_sex.pdf

 

戦争と性暴力の比較史へ向けて

戦争と性暴力の比較史へ向けて

 

 
「普遍性」と語ることは「正しい」か
すでに、ここに、語用と誤用の問題があるのだが、これは「一般性」と謂うべきで、ここに事実性ー語られることで制限されて認知される事実があるとき、その存在の傾向ーを重視する彼女たちが、なお、規範的であるゆえに、別の事実性を裏口から挿入していることに気付かないことが、彼女たちの本質的な問題をうきぼりにする。
つまり、「普遍的」と"語られた"としても、その事実性に着目するならば、それが「一般性」を意味していることは容易にくみ取れるはずで、しかしなお、「普遍的」であると受け"とろう"とするときに、それを語った「男」の事実性に加えて、それを語られる「女」の事実性が、掛け合わされるのである。
そもそも「女」とはカテゴリーであって、個人との間に緊張関係を強いるのであるから、規範的であることにはよくよく注意しなければならないのであるが、まだそれに至っていない様な印象を受ける。
これは、性暴力被害に関しての、責任と教訓の混同という、いつも問題になることと同じ問題である。彼女たちが、まだそれを理解できていないとすれば、あまりにお粗末である。
なお、「普遍的」と謂うときには、抽象的であるがゆえに、演繹に関する誤謬が問題となり、「一般的」と謂うときには、具体的であるがゆえに、帰納に関する誤謬が問題になることに注意しなければならないと思っている。またこのとき、責任が事前の不利益命令、教訓が事後の不利益命令であることと、平仄があっている。

興味深いこと記事を見つけたので、ケーススタディとして。
曽野綾子さんの「語り」である。
男女の別について、神仏に絡めて語っているのである。
彼女はとかくリベラルから(いわれなき)非難を受けやすいのであるが、ここに典型的に、語用と誤用の問題が現れている。
彼女はカトリックであって、宗教者であるから、(なんら前置きすることなく)宗教的確信から語るのであるが、宗教に関心の薄い人が多い日本人に、ましてやキリスト教徒の少ない日本人に、なかなか理解されないのである。
つまり、彼女の語った「男女の別」もそのようにして語られているはずであるが、ここで問題なのが、『神仏』と言ってしまっていることである。つまり、彼女の「語るうえでの関心」は、宗教的関心の薄い日本人に対して語るときに、お仕着せがましい宗教的な規範を目立たせないことへの配慮であると思うのだが、要は、いかに俗っぽく平易に語り受け取り安くするかであるが、この迎合が受け取る側の今持っている価値観に根差して語る言葉として現れるときに、余計な『仏』を付加してしまうことに繋がるのである。つまり語用であるがゆえの、誤用なのであるがー語用といったときには、そもそもの語彙から離れて、表面上の意味とは別に、発信側と受信側の相互の了解のもとで受け取られる(別の)意味について言ってるのであるが、そのような表面上の意味とは異なる意味のことをここで「誤用」と言っているのではなく、その「相互の了解」に錯誤があって、不全に終わっていることを言っているのである。
ここで、リベラルの立場から、性別に関する差別(要は、男女、と謂うのは、規範的であって、事実と異なるートランスジェンダー等の問題)を非難しても彼女はまったく堪えないのであって、そのとき彼女は、宗教者として語っている"つもり"でいるのであるから、そのような非難は彼女の「誤用」に気付かせないままでいるのである。彼女の「語り」の問題は、『男女』と語ったことではなく、『仏』と語ったことなのである。


江川紹子などもこういったことがどうも苦手らしく。
いつまでたっても、「文書改ざん」という語りに拘るのである。
ばかげているのであるが、マルクスの影響を受けた女性運動家には多い間違いなのであろうか。
音楽もシステムであり、「意味野」とでも名付けたくなるようなまとまりを記号によって紡ぐ営みであることが意識されているらしい。絵画も実はそうであって、この意味の「軽重」、つまりは統合される意味の順序に関して区別がつかないときに、認知の発達に問題があって社会的な困難を抱えやすいことを指摘するのが知能検査であるが※、江川紹子が発達障碍者であるとは思わないが、そのような「発達障碍者的な問題」が(絵画ではないが、文章だってシステムであるところ)文章を読むとき、或いは書くときに現れていることは指摘できると思う。簡単に言うと、味噌も糞も一緒なのである。
発達障碍者は、認知が「普通」でないとしても、その存在に対する社会受容は「普通」に"なる"べき(積極的自由。)だと思っていて、社会が発達障碍者にその鼻面を引き釣り回されることには眉をひそめるのである(だから、スティーブ・ジョブズへの礼賛にも良い気分がしない。彼は偶々存在する個人として非常に興味深いが、誰もが目指すべき指針ではない。"ただの"赤の他人である)。それは発達障碍者に対する「普通」の受容ではないからである。

※この不都合は実に微妙な装いを見せるのであって、例えば、視角に関するクイズで、同じ記号の羅列の中から、似たような違う記号を発見するときに、発見しやすくなるのではないか、と思っている。「普通のヒト」は、大勢を占める記号があるならば、それが(主要な)「意味」を為していると受け取り、「枝葉末節」を排除して理解するがゆえに、違う記号を発見しにくいのであるが、「普通」じゃないと、その区別がないために、その違う記号を発見するのである。ときにこれは、『これが見つけられたら、天才』と云った風に出題されるのである。