悪問と自由条件

300円を持ってコンビニに行き、170円のパンを買った場合のおつりで理系と文系で答えが違うと話題に!

自由条件の問題なら、「最大130円」でいいじゃない。
それより問題は、

300円持ってコンビニに行き、170円のパンを買った場合のおつり
300円持ってコンビニに行って、170円のパンを買った場合のおつり

という文章を比較して、「て接続」の意味を考えるなら、「行く」と「買う」は直接の関連はなく独立の行為を並列しているのであって、その場合まぁ、自由度が高すぎて、答えは出せない。
「おつり」の概念から考えただけで、そのように「帳尻が合うように、機能的に、或いは帰納的に考える癖」が人にはあるよ、という話。
 「30円」と答える場合、自由条件の問題として受け止めているのであって条件に拠るロジックをあらためて開示する必要があるが、はなから回答にはそれを求めていない。これを整合的に考えるなら、問題文にロジックが潜んでいると考えるのが穏当で、そして「130円」と答えたくなるのだが、先ほども言ったように、自由条件を定義域と読み替えるなら値域を答えればよいのであるから、「最大130円」と答えることができるだろう。
ただ、もう一度言うが、そもそも日本語としていかがなものか、と考えるのである。


自由条件の問題を直ちに悪問と考えないのは、以前日能研の面白い問題を見たからだが、逆に悪問と考えられるかどうかは日本語の問題文を形式論理に「翻訳」できるのかどうかだと思っていて、その場合、日本語の文が日本語として間違っておらずまた無駄がないことは大事であると思っている。