「オリエンタリズム」へ立ち向かう際に必要なのは、自省


うーんとね、違う。
オリエンタリズム」を云うのは良いのだけれど、「ポストコロニアル」にとって大事なのは、「原罪論」に近いもので、どういうことかというと、それを「オリエンタリズムだ」と指摘するときの(その話者自身の)「オリエンタリズム」を問題と両方同時に発生するのであって。だから、それを指摘する人は「疼きを感じるはず」なんだよ。
その人自身の良心も傷つけているはずだから。

具体的に言うと。
この人の指摘って、自然言語の限界を示しているだけなの。
つまり、「女を卑下している」と謂うとき、抽象化すると、人は人を対象化しないことができるか、にしかならないわけ。「見る」という行為の中に必然的に「対象化」を含まれるはずで(でなければ、「直観」になる。それとともに、それに対する「許し」をキリスト教が大事にする理由が、イエスの姦淫論ですでに明示されている。)、問題は、object化はsubjectからの除外であるから格落ちなんだけれど、不正義かどうかは自明ではないと言うこと。不正義とするのは、社会的な問題なんだよ。即ち、「卑下」言ってしまっていることがその「言葉」による「文化」の押し付けなのであって、まさに「オリエンタリズム」の問題なんだよ。大切なのは、言葉を失わないためには、それに気づくことなんだ。

貴方は「理路整然」と言ってしまっているのだけれど、それこそ「オリエンタリズム」の温床なんだよ。
おそらく「理路整然」と語った話者は、「オリエンタリズム」を語ったフェミニズムであって、「オリエンタリズム」とフェミニズムは本質的に対立する側面を持つんだよ。というと、一般的ではなく、オリエンタリズムフェミニズムから大いに研究されていると思うけれど、でもマルクス主義自体が道徳的だからね、権威的で、全体主義的なんだよ。だから、それ自身も対象化されるべきだし、実際にされてしまう。
フェミニズムは、リベラリズムの不正義の問題を、平等の点から議論をひっくり返しているのでね。責任転嫁の正義を主張する運動なんだよ(良い責任転嫁と悪い責任転嫁がある、という主張)。