その後も読み比べを続け、計200冊以上を読んで気がついたのは、桃太郎の話が時代によって異なること。特に、鬼については
(1)江戸~明治初期は、鬼から宝物を奪っている
(2)明治末ごろから、鬼がみずから宝を差し出すようになっている
(3)昭和になると優しい鬼が出てくる―と、時代とともに非力になっていく様子を発見。鬼に落ち度はなく、「桃太郎盗人説」に共感を覚えた。同時に得体(えたい)の知れないものを「鬼」とすることで、日本人は昔から心の安定を図ってきたという結論にたどりついた。
【東京すくすく】「桃太郎は盗人。鬼は悪くない」 200冊読み比べた小6が本を出版 椎名誠さんも絶賛 https://t.co/DJ1yehrkxu
— SHIGENO, Hiroki 滋野浩毅 (@seishindo11) 5 oktober 2019
いろいろと考えさせられる。
彼女は素晴らしい「小学生」だと思う。
彼女の「読解力」は斎藤孝の意味で(👇)大変高いと想像できる。
👇になると、「キャリア教育」も入ってくる
総合的な学習の時間を活用した調べ学習(岡山県立勝山高等学校).pdf
僕らの小学生の頃は、図書館活用はあっても調べもの学習はなかったし、総合的な学習の時間はなかったけれどその萌芽となることはあって、一方で「レクリエーション」はあったし、一方で、図工と算数などの、横断的な学習はあった。『銀の匙』の授業も「研究的」(試験的に)に行った👇ーただし、知のネットワーク構築への指向とは異なる。
僕たちが受けた『銀の匙』の授業は、むしろ意味論を携えて、『コツン』と響くときのスペクトラム性に気付くことに主眼が置かれていた。中心(があること)と外延(がないこと)であるし、したがってカタチではなく強弱であって、渡されるモノではなく伝わるコト※、或いは、物性ではなく心性であるときたら、いよいよ「国語」的である。角のない音が、やさしく何かにくるまれていることに、何を感ずるか。
※これが、モノからコト化を通じて科学に向かわないのは、「国語」の授業だからだろう。それは、知のネットワーク性とはことなる次元の話で、その構築とは意義が異なるのだろう。
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そう考えると、彼女の調べ学習は、あくまで「国語」の延長であって、その意味で称賛されている。
👆は「9条」と「天皇」の交代について述べているが、国語における近代性、近代人としての資質として求められる「道徳」と一口に言っても、戦前と戦後で、実は異なる。
今の上皇陛下だって、幼少のころ、ヴァイニング夫人から学んでいることを思い出す。
「8月革命」はよく誤解されるように思うが、その前段に、アメリカによる「世界革命」があった(それを踏まえないとよくわからないーポツダム宣言受諾と東京軍事裁判も。基礎的な事実として法思想史👇を理解しているかどうか)。
さて、福沢諭吉は何を言いたかったのか。
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中世、日本人はキレやすかった!大名から庶民まで刃傷沙汰は日常茶飯、人命は鴻毛のごとく軽かった。双方の言い分を足して二で割る「折中の法」、殺人者の身代わりに「死の代理人」を差しだす「解死人の制」、そして喧嘩両成敗法。荒ぶる中世が究極のトラブル解決法を生みだすまでのドラマ。