「期限」(社会的必然)に潜む偶然

猫猫先生がべた褒めしていた。なるほど。 

掌の小説 (新潮文庫)

掌の小説 (新潮文庫)

 

冒頭と末尾に同じ文が…あの文豪の名作に隠された意味
2019/10/29 11:00新刊JPニュース0


そうかな?
「意味はない」と思う。意味はない、じゃなく、「意味はない」。
単に反教養小説なのだろうと思うけれど。
言い換えれば、「あれば」の小説ではなく「あらば」の小説で、三島は「運命」と呼んだけれど、「偶然」の小説で、日常会話の話柄なんじゃないかと思う。
むしろ童話に近いだろうか。
偶然が必然になるということでは、オー・ヘンリーの『最後の一葉』を思い出した。
それで、「自然のなせる業」と言い募って対置するのも変な言い草で、光景と謂う幕が上がって、幕が下りただけだろうとおもう、或いは、挨拶くらいのことだろうと思う。それは、意味を組み立てる建設でもないし、意味の確認でもない。ただ挨拶の良しあしによって、反射的である。気持ちが良い。
※例えば、民法では「条件」と「期限」を分けて考える。
そう言えば、川端って、ずっと旧仮名使っていたのかね。「ゐる」。自分も最近は、「居る」「在る」「成る」は漢字で表記しようかと迷っている。年食うとそうなるのかね。

 最後の一枚の葉 原作:オー・ヘンリー 翻訳:結城浩
或いは、

中島弘貴   5つ星のうち5.0(2009年8月27日に日本でレビュー済み)

感動屋であっただろうドストエフスキー、自意識過過剰であっただろうドストエフスキー。 彼の作品の登場人物は感動に駆られて激しい言動に走るが、それは作者自身の反映だったのかもしれない。ともすれば、すべての人間にそういった傾向があるのかも知れないが、彼の作品ではそれが常態として繰り返し強調されている。 他にどうすることもできない人間の切実さ、滑稽さ、うつくしさ。彼はそれをあざやかに描き出す。胸に迫る。

上記の究極の体現の一つである、他にどうすることもできない男女の悲痛なはなし、「おとなしい女」

 

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題