読解とは基本的に、「英語の読解」である

だから、「空気」ではなく、文章を読まなければならないのだけれど。。。

近代小説の成り立ちから考えて、そう考えるのが自然だと思う。
例えば、itは何を指しますか、theyは何を指しますか、ということ。
そのときに、日本語の特性として(実際に、上記の英文を自然な日本語に訳すとわかるが)、"it"や"they"が背後に隠れやすいということが、「日本語の読解」は日本の特別な文化に根差していると誤信させているだけだろうと思う。
実際に、高校の国語授業研究で、生徒に『城の崎にて』を読ませてから内容の理解に関して正しいと思われる選択肢を選ばせ、選択の理由を答えさせたものがあるが、生徒がどのような理解をしたかを見ると興味深い事実が指摘されていた。『城の崎にて』は「神様」と言われた志賀直哉の「無類の名文」とも言われた小説であるが、「それ」の多用でも知られていて、しかも、それが必ずしも明晰ではないのである。

例えば、上の"it"に寄せて考えるなら、itは①broken English➁前の文全部③(someone who )speaksのいずれを指すか、といった具合の設問で、生徒は➁(前の文全部)を選びやすいということであるー『城の崎にて』の読解では。
ここでは、文章上の対比への着目という、抽象的理解と、実際のそのような場面を想像する、具体的理解(経験的理解)の両方を行き来することが求められている。ところが、直截的に対比が示されていないーからこそ「読解」なのだがー生徒は「別の可能性」に困惑するのではないか、そのときに、十分制限できずに、➁を選ぶのではないか、と思う(いや、『城の崎にて』の生徒の読解の「謎」を解くための言及である)。


👇批判も多いのだけれど。面白い。 

英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ

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 川端康成の『雪国』の冒頭でどのような情景を思い浮かべるかについて、日本人と日本人以外で違いがあるか。
「日本人」というのが生得的な属性と考えるなら誤りで、文化的特性ならそう言える。日本人に成る、のである。このとき、経験は、教育も含めてそうであって、言語は共通理解を助ける。つまり、そのときにはそう考えることが共有されるために言語が利用される。「『雪国』の冒頭の情景では"あなたも"汽車の一席に座って外を眺めているものなのだ」という、主体的或いは主観的な読み=共感的読みが、粘り強く教育されるのである(国語が一種のモラル教育である所以である)。
それは、(読解上の)「一般式」であり(だから、文中で説明されることもあれば、されないこともありまた、一般ではない意味を付与する場合もある。)、それは慣用句とは若干異なる。

そう考えると、「たくさん覚えている」つもりで、別の観点からは、覚えていることが少ないのではないか、とも思える。

「光」に関しては、キリスト教の影響だろうと思う(これは英語の文章を読むときの基礎教養である)。つまり、彼の国の文化圏では、「光は希望と読み替える(べき)こと」なのだ。

沈黙 (新潮文庫)

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