まあ背景には権利概念自体の多様性や、人権がそもそもかなり違う存在であった上に拡大し続けて性格が曖昧化していることがあり、権利といっても同一性を根拠として一定の処遇の正当性を主張する「権利語法」としての共通性しかもはやない、という事情はあるわけですが。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) November 9, 2020
「民族自決」が人権(カタログ)にあるのは、逆演繹だからですよ。
〇民族自決は国際法概念
〇ただし、この場合の「ダブルスタンダード」とは統合して理解されるべきときの矛盾のことではなく、統合されなくてよいそれぞれの分析概念上の単位性(モナド性)のことで、それぞれを「法人」「人権」と呼ぶなら、「法人」が(モナドとして)1個の存在ならば、その限りで成立する社会上は、別の分析概念単位である「人権」を援用する必要がないだけに過ぎない。
〇それは、それぞれの社会が成立しうる可能性を「単位」という分析概念から説明したのであるが、ただ世界概念としては、社会は個人を内包しているのであるから、調和的であることが求められる。
〇そのときに、(経緯的には外部事情の内部への取り込みであるが)逆演繹を用いて説明するのである。
👇ジョン・スチュワート・ミルの逆演繹法についてhttp://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kindai/kindai03b.html
それだけのことである。
統合/分析という区分であれば、性的搾取とわいせつもそれでプロットすることができそうで、「性的搾取」とは、統合概念の対抗(対決)的側面を持つがゆえに、(対抗軸を共有して)反射的、排他的であるともいえる。