大正デモクラシーが隠してしまったこと

健気けなげ

《ダナ》(女性・子供など)力の弱いもののかいがいしさが、ほめてやりたいほどであること。心がけが殊勝であること。

Oxford Languagesの定義

健気 - Google 検索

 『予め強がる』と言うときに、『予め』は何かに先んじるわけであるから、何に先んじていたかが問われる。画を見るのに先んじて、画の評価を漱石が下すのに先んじて、漱石がその画を見て見舞いにきてくれるのに先んじて、或るいは、  のような他者の評価に先んじて。

そうすると、「画」「俳句」「注釈」と3つの提示物があって、「画」と「俳句」はともに「写生」なわけだから、等価だ、ならばそれで十分なはずのところ、「注釈」がある。時系列的に考えても、「俳句」の位置関係は不明だが、「画」と「注釈」は「注釈」が後だろうと想像するのは無理ではないだろう。そこで思い至らず、思い余った末のことだろうと想像がつく。

強がるにしても思い余った様子であるだろうから、ただそうだとすると、子規が素直じゃない面を強調することになる。実際はそうかもしれないが、その根拠が文中に見当たらないんだよね(これが「読解」の意味だろうと思う)。
見つかるのは、子規がいかに『真面目』であったかであって、だったら、この言葉もそう受け取れないだろうか。そのうえで、余程のことだから、それは「健気」だろうと思ったんだね。

 

そうして、「健気」を検索してみたら、上の意味がわかったわけだ。
要は、オンナコドモなわけだ。

あれ?と思ったんだ。
「健気」ってそういう言葉なの?って。
そうして、武者小路実篤の『友情』を思い出して、あぁ、そうか、ここで謂う『友情』は「愛情」と区別されて「∃(在る)」ことだったのか、と。
つまり、「論理的」に考えると、日本語で平易に説明される「(それまでは優先されがちだった友情よりも愛情をとるこの物語は)当時珍しかった男女の自由恋愛を後押しした」(こうして、漱石の『こころ』、鴎外の『舞姫』と比較される。)が、実は、「男女の恋愛」が「∃(在る)」には、「愛情」から異なって「∃(在る)」、すなわち、「愛情」から「異性間の恋情(恋愛)」「同性間の恋情(恋愛)」「同性間の友情」「異性間の友情」が分離して「∃(在る)」効果として、「異性間の恋情」と「同性間の友情」が比較されることになった、ということだから、漱石を尊敬してやまずなお漱石をこうして批判した実篤の前には、漱石による「愛情」があったはずだと考えた。
ということは、漱石の「愛情」は、今の我々が考える「友情」とも「恋愛」ともそうして分けて言い難い一緒くたになった、しかし、おそらく性的関係には至らない「思う」だけのことだっただろうと考えたんだ。

つまり、オンナコドモと言われる前には、オトコも健気でありえただろうってね。
そして、まさに、子規は健気であっただろうと思った。
そうならば、それは、弱音だよね。しかもそれか思い余ってのことだから、真面目に説明している体裁をとろうとしているが、本音が透けて見えるよね。思わず弱音が。

 

そういうこと。
天下の東京大学が、わざわざこのときに、この問題を出してきた。
武者小路実篤大正デモクラシーの旗手だったわけだけれど、大正デモクラシーは現代的な要請に応えられているのか、もう一度考えてみていいんじゃない?
我々が望むデモクラシーの理想がそこにあったのか。
東大がそれを問うていると信じたいよね。

 

 

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