友情は一種の恋愛感情

さて、回答してみる。
(一)「下手いのは病気の所為だと思いたまえ。」に現れた子規の心情について説明せよ

 

東菊にことよせた自己の境地の寂しさから慣れない画を描いてみたが、似つかわしくない拙さから末期の猶予を失っても猶友情を求めて、思わず弱音となって吐露された

 


  

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そこには「このとおりだよ」と断るなど普段にはない律義さが見られたが、愚直なわりにそれらがあまりに寂しいことから境地が察せられたのである。

と前回書いたのであるが、

 

①画は東菊で、俳句が添えられている

②俳句は景色に心情を映して詠まれたものであること
東菊(東京に残されたー子規)、火の国(熊本で揚々と活動しているー漱石)、寂しさ

③画には慣れておらず、簡素であるが省略がなく、律義であるが拙く行間(飛躍)がない。

④画はわざわざ時間をかけて描いてくれた。

⑤(自己になぞらえた)東菊は枯れかかっているー子規の余命への悟り→省略できない時間的余裕とそれでも時間をかけて描くことの「矛盾」

⑥注釈であることー省略したくない余計な繰り言

だとすればこのベースにあるのは「思い」であって、それは東菊をわざわざ描くほどの、漱石への友情(愛情)だろうと思う。愛情だからこそ、寂しいと言い募るし、余計な繰り言が多くなるなど、それを求める努力を惜しまない。ポイントは俳句だけで完結していないこと(拙い画に着目しがちなのであるが、慣れた俳句もそこに詠まれているのである。本来なら、俳句の持つ構成力に拠って説明不要でなければおかしい、俳句を作った子規ならば)。

もちろん、もとより自己の境遇があって、それを求めずにはいられないのだろう。 
ここで「強がる」精神的余裕は(「東菊が枯れる」死を目前にして)おそらくもうないし、むしろ正直で、健気であろうと努めていると思う。

これは昭和を経た我々が思いがちなステレオタイプの(或いは「貴様」と「俺」による)「男の友情」ではなく、おそらく恋愛なのである。漱石や子規が同性愛者と言いたいのではない。
言いたいのは、我々の偏見の方である。

 

わしゃ、絵が下手やけんどね。気にしないって誰か開き直ってなかったか。
蕪村は旨いしな。

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曾良だったかな、、、気のせいか

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