ウルフの『灯台へ』と『オーランドー』をメインに論じています。『魔の山』を起点にして、ウルフが旧来の「男らしさ」を批判しながらも「女性らしさ」の象徴「家庭の天使」も殺したいと考えた矛盾に迫ります。ウルフの「男らしさ」の矛盾を解く鍵は『自分ひとりの部屋』と『三ギニー』にありました。
— 小川公代 (@ogawa_kimiyo) November 7, 2020
8月の論考では多くの作家や作品に触れながらケアの倫理の概念を整理しましたが、連作では各作品をもっと掘り下げて論じます。今回はウルフのジェンダー化された時間感覚に注目しています。ウルフは、生産性に繋がる計測可能な「クロノス」的時間を凌駕する感覚として内面の「カイロス」的時間を描く。
— 小川公代 (@ogawa_kimiyo) November 7, 2020
トーマス・マンの主題は👇の意味での「カイロス」じゃないかとも思えるが、「そうではない」ということだろうか?
この概念を学問的用語として定立したのは,現代の神学者 P.ティリヒである。ティリヒはこれを,永遠が実存に危機をもたらしつつ時間のなかに突入してくる卓越した瞬間とし,その瞬間は歴史のなかで期待され,熟してくると考える。「時は満てり,神の国は近づけり」 (マルコ福音書1~15) の「時」とはこの意味でのカイロスにほかならず,決断すべき運命的な瞬間,機時であるといえよう
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明治期における、グランド・セオリーとしての政治学は、このような永遠(無限)を扱っており、同時代のデデキントがあたかもそうしたように、その分割を論じたはずであるが、もちろん数学と法学は異なり、行為の意味を通じて存在意義を模索するのであるから(自由意志の問題)、神学的な「カイロス」に近づき、その集大成が『魔の山』じゃないかと思う。
これが『罪と罰』になると、「理論」ではなく「実践」を扱うので、「権力」ではなく「権威」、「演繹」ではなく「帰納」を扱うことになるだろうか?2つの物語における無神論者の主張が注目される所以である。
『魔の山』は直前のハナシであり、『罪と罰』は直後のハナシである。
それを今度は、「ケア」を軸に、「男らしさ」と「女らしさ」を対照させるという。
「ケア」とは、『正義論』への批判を通じて概念が形成されてきたのではなかったか、と思うが、「正義」は「善」と区別されて計量が論じられるので、その批判であったか。
全然安くなってない。