なぜ、酔っ払いの与太話が重宝されておるのだ。
国語教育の最大の謎である。
どうもゲーテの仕業である。日本の文学者にやたらとファンが多い。
👇隠喩学におけるシラーの位置
Paradigme(範列)/サンタグム(連辞)
情報記号論の諸問題/東京大学大学院情報学環・学際情報学府/石田英敬
そんなことを言われてもですな。すぐにわかりますかいな。
言語学の用語でパラディグマ(範列)というのは、
ぷかぷか ——無縁の縁(えにし)を紡ぐ——
なるほど。
markovproperty.hatenadiary.com
自分の太宰への「読解」は、範列的な関係を意識しつつ、変換を解釈したということになるらしい。まんざらでもない。
根っこには、ネオプラトニズムがあって、
一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節]
なるほど、これはそのまま『走れメロス』のテーマではないか。
そして、キリスト教である。
アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。
また、
アウグスティヌスの思想として特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは自由意志に関するものである。
「神の恩寵(による自由意志の補充)」は確かにシラー『人質』に見られる。
神もついに憐憫を垂れた。
シラーの『彼は焦燥にかられた。ついに憤然と勇氣をふるい』が太宰では『今はメロスも覚悟した。(中略☆)愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。』に変わっている。
そうしてようやく『プライド』にたどり着くのである(☆)。メロスの性格的要素である。
ああ、神々も照覧あれ!
太宰はシラーをより洗練させたのか。
「意地」や「」でダメなのは、そこに古典的調和を求めるためだろう。
意地とプライドの違いってなんですか??? - 意地は、自分で... - Yahoo!知恵袋
うまいこと言いますね。
しかし、本当にそんなに高度な発問だったのか?
どうしても間に合わず、彼のために 救い手となることが出來なかったら 私も彼と一緒に死のう、いくら粗暴な暴君でも、友が友に対する義務を破ったことを、まさか褒めまい。彼は犠牲者を二つ、処刑すればよいのだ。愛と誠の力を知るがよいのだ!
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
なお、赤字強調は引用者。
もちろん太宰はツケの支払いに間に合わなかったのである。