かっちり調べてないけど、明治期はたぶん緑豊か(田舎)だったと思われる。
— ちゃらんぽらん@我らが帝王トウカイテイオーに神の恩寵あれ! (@Charanporarism) September 17, 2021
ただその後の開発でどんどん潰して、昭和期には残ってなかったんではないかと思ってます。
でも教科書には森の都とか掲載され、このあたりからビジュアルとしての杜の都から、アイデンティティーになったのかな。
そうですね。
要は、宅地造成も「開発」ですけれど、そういった意味では、「城下町」と呼ばれる区域全域が住宅地であったわけですから。
私も詳しくはわかりませんが、法の整備によって変わったのは、まずはどうもこの「区域(の指定)」であって、もともと伊達政宗の「杜の都」はいわば(仙台は「武士の都」だったところ、武士の)「宅地造成」の際の「規約」のようなものではなかったでしょうか。
「都市景観」は都市計画(決定)に沿って取り組まれてきましたから、地方が先行していたようです(もちろん、施策メニューとして、国の支援もあったでしょうが)。
街路樹は必要ですか?/独立行政法人 北海道立総合研究機構(道総研)
宅地造成をするにも開発計画で協定化に至ることがあるようですし、様々なチャンネルを通じた民主的決定において「アイデンティティー」と受けとめられる土壌が形成されたのではないでしょうか。