中島敦の構造文学

適切に説明できていないくて、どう直すか迷う。
とりあえず、下の文を追加。

 

これが彼の、自然主義に対抗する、耽美主義であったようだ。
山月記』の場合だと、話者たる袁傪の李徴の詩に対する「半ば」の評価がそれで、それが合図となって、袁傪(の主観)と李徴(の「主張」という事実)が交錯する。この前後の倒錯の真相が神秘と謂う『藪の中』なのである。
これが中島の発明であったようだ。
なぜ、袁傪が唐突にこのように腐すのか、文脈上の意図として表現される作者にとっての必然性を読みかねていたが、トリックスターとして機能していたらしい。倒錯の合図だったのだ(これが「倒錯」を帰結するのは、それを踏まえてー他者である李徴が本来踏まえようもないはずのことだが、袁傪の主観と李徴の客観が交錯することで達成するー後の詩の評価がなされないことでわかる。合理的に解説されてはいけない禁忌なのだ。

一般に、違反者は超自然的な制裁を蒙るものとされる。

禁忌とは - コトバンク

ここに文字禍と同じ主題が導入されているのだが、しかし一方の『山月記』では『禍』ではないかもしれない。『文字禍』と『山月記』はセットで構想されたと考えると読みやすくなる。神話体系の近代的な昇華である)。

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完全ではない。まだところどころ破綻している。

しかし、これで、増淵批判の準備ができた。
増淵が何を言ったところで、それは新しい神話に過ぎないからである。
これが「文脈」に対置する「構造」の意義であり、「文法」に対置する「論理」の意義である。