武の国ロッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。

president.jp

 

すごいね。おもしろいね。
中島敦」の理解に関して『次元が足りない』表現も一緒にするのは、すごくセンスがあるのかもしれないね。よい先生だね。そういう時代だよな。
(「のも」じゃないね、「表現も」だね。失礼いたしました。)

中島敦を『山月記』から読むのはよいのだけれど、増淵の『山月記』(解釈)から入るのは、学習者にとって〈不幸〉かもしれないなぁ、増淵はやっぱり「戦後」(の復興)の問題だよな。

だって、中島が活動していたのは、

ja.wikipedia.org

こういう時代だものね。
だって、その少し前、ナイチンゲール1820年5月12日 - 1910年8月13日)らが居た時代に世界でもっとも著名な、所謂セレブはマーク・トウェイン(1835年11月30日 - 1910年4月21日)なんだものね。中島 敦(1909年(明治42年)5月5日 - 1942年(昭和17年)12月4日)はほとんど彼らと入れ替わりなんだよな。

ただし、中に、若干の政治的意見を加えたことはもちろんである。武の国アッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。

中島敦 文字禍

満月のごとくに引絞ってひょうと放てば

中島敦 名人伝

山月記』で李徴が吼えるのは、中島にとって、それのみの特別な意図はないのかもしれないよね。フォーカスしすぎだよな。
だって、中原中也(1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日)と同じ世代だもんね。大正デモクラシーから昭和デモクラシーの頃なんだよな。
関係あるかわからないが、どちらも朝鮮に暮らした経験がある。

chuyakan.jp

面白いことに気づいたよ。

中原中也のお父さんは、中原謙介(1876年(明治9年)6月19日 - 1928年(昭和3年)5月16日)って人みたいだけれど、野口英世(1876年(明治9年)11月9日- 1928年(昭和3年)5月21日))とほぼ同時期に生きて、同じように済世学舎で学んで医者になっているんだね。

20歳の時、済生学舎(現在の日本医科大学)で学びと共に実地試験を受け、同時に施行された医術開業試験に合格、医師免許をとる。 その年20歳の合格者は謙助1人で全国最年少者だったという

中原謙助 - Wikipedia

全国最年長者は野口英世だっただろうか?

特に野口英世は、経済的理由から済生学舎への入学は遅かったが、血脇守之助の援助で1897年(明治30年)4月1日から10月まで約半年間済生学舎に在籍して最短期間で卒業している。

長谷川泰 - Wikipedia

 

とまれ。
中島敦は、👇のような理解だったんだよなぁ。いや、それは決めつけられんけれども、それでもおそらく、「文字の人」だったんだよな。

一方、深田は敦が旅立ってから半年後、ようやく原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした[70]。託された4篇からなる「古譚」の原稿を『文學界』に推薦し、その中から編集の河上徹太郎が2篇(「山月記」「文字禍」)の掲載を決めた[71]。

中島敦 - Wikipedia

markovproperty.hatenadiary.com


今や、ライフイベント・サイクルは、全く社会常識か。