はじめまして、RTで拝見しました。
— ゆみすけ🌤️みづなや 11/13,14デザフェスE81 (@mizunayayouka) November 4, 2021
高2の長男の一学期期末テスト問題にまさにそれがよく現れておりました…! pic.twitter.com/Fc9vWuVsoU
すごいね。おもしろいね。
「中島敦」の理解に関して『次元が足りない』表現も一緒にするのは、すごくセンスがあるのかもしれないね。よい先生だね。そういう時代だよな。
(「のも」じゃないね、「表現も」だね。失礼いたしました。)
中島敦を『山月記』から読むのはよいのだけれど、増淵の『山月記』(解釈)から入るのは、学習者にとって〈不幸〉かもしれないなぁ、増淵はやっぱり「戦後」(の復興)の問題だよな。
だって、中島が活動していたのは、
こういう時代だものね。
だって、その少し前、ナイチンゲール(1820年5月12日 - 1910年8月13日)らが居た時代に世界でもっとも著名な、所謂セレブはマーク・トウェイン(1835年11月30日 - 1910年4月21日)なんだものね。中島 敦(1909年(明治42年)5月5日 - 1942年(昭和17年)12月4日)はほとんど彼らと入れ替わりなんだよな。
但し、中に、若干の政治的意見を加えたことはもちろんである。武の国アッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。
満月のごとくに引絞ってひょうと放てば
『山月記』で李徴が吼えるのは、中島にとって、それのみの特別な意図はないのかもしれないよね。フォーカスしすぎだよな。
だって、中原中也(1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日)と同じ世代だもんね。大正デモクラシーから昭和デモクラシーの頃なんだよな。
関係あるかわからないが、どちらも朝鮮に暮らした経験がある。
面白いことに気づいたよ。
中原中也のお父さんは、中原謙介(1876年(明治9年)6月19日 - 1928年(昭和3年)5月16日)って人みたいだけれど、野口英世(1876年(明治9年)11月9日- 1928年(昭和3年)5月21日))とほぼ同時期に生きて、同じように済世学舎で学んで医者になっているんだね。
20歳の時、済生学舎(現在の日本医科大学)で学びと共に実地試験を受け、同時に施行された医術開業試験に合格、医師免許をとる。 その年20歳の合格者は謙助1人で全国最年少者だったという
全国最年長者は野口英世だっただろうか?
特に野口英世は、経済的理由から済生学舎への入学は遅かったが、血脇守之助の援助で1897年(明治30年)4月1日から10月まで約半年間済生学舎に在籍して最短期間で卒業している。
とまれ。
中島敦は、👇のような理解だったんだよなぁ。いや、それは決めつけられんけれども、それでもおそらく、「文字の人」だったんだよな。
一方、深田は敦が旅立ってから半年後、ようやく原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした[70]。託された4篇からなる「古譚」の原稿を『文學界』に推薦し、その中から編集の河上徹太郎が2篇(「山月記」「文字禍」)の掲載を決めた[71]。
markovproperty.hatenadiary.com
今や、ライフイベント・サイクルは、全く社会常識か。