評価を為すのに必要な構造と様相

 

ここはピッチャーとバッターの勝負です

これはロジカルで措定の〈は〉が肝。
比較となるのが、

 ここ〈が〉ピッチャーとバッターの勝負です

したがって、元文の例では、『でない勝負』:チーム間の「勝負」を等閑に付しています。要は、日本人の好きな、1対1の勝負ですー本当はそんなことありえないけれど、焦点化した結果異化され別文脈のドラマツルギーを生んでいるのでしょう。好例が『江夏の21球』です。

江夏の21球 - Wikipedia

 

markovproperty.hatenadiary.com

今の子たちの情報の受け取り方は、本当に「昭和」と違うんだから。
「昭和」の人間で『進次郎』なんて出てきません。
なぜなら、『ピッチャーとバッターの勝負』で当たり前だから。
消費社会が情報社会で支えられていることをまったく理解していないと思う。

 

半数の人が中央値を下回っている

については、

 半数の人は中央値を下回っている

でよいと思う。それが中央値の定義だから、文脈上、措定されている。
それが〈が〉の効果で、様相(できる/すべき)の文脈に乗って分析結果のように読まれるから、「間違い」なのであって。
つまり、「論理」と「文脈」を分けて教える意義がここにあって、〈は〉を「主題」とか「取り立て」と文法から理解していると、区別がよくわからなくなる。単に、「言いたいこと」なのかな?となる。そうじゃない。構造を作る語彙と、様相を作る語彙があるのです。

 

👇こんな「昭和」のインチキ本を信じているうちはダメです。
これは「教科書」じゃなくて、『豆腐百珍』と類書の、低俗な便利本です。
(無駄というのではなく、巷間この程度で「大丈夫」という安心を与えることができます)


ドラマツルギー (社会学) - Wikipedia

何度も言うけれど、「昭和」の学校では、陰に陽に「負けるな」と教え込んでいたんだよ。
それを続けたいと「リベラル」が言うとしたら、控えめに言って、「狂っている」。