読んでないのでよくわからないが。

アマゾンのレビューを見ると。

「三角ロジック」というものがあるらしい。

それは   だね。「学」じゃなく「術」。。でもないか、「鑑(手本)」だね。

 

それと根本的なことで。

「国語」に拘ると、「論理」ではなく、「論理的な文章」の指導にしかならないんじゃないかな。

「論理」と「論理的な文章」はおのずと異なるからね。後者は「文章」の指導であって。

難しく考えすぎているのであって、「論理」は「評価システム」のことです。それが任意に定まるにはどうするかが本質的な問題であって、だから、「文脈」から考えると的を外します。

「読解」と「論理」は異なるジャンルです。

なぜ「国語」の先生たちが詭弁を弄するのかよくわからないのだけれど、どのみち今の教育でも文学をまともに読めていないって=まともに授業が行えていない=生徒にとって時間の無駄と明言するのもいかがなものか(教師の自己満足)。
そこまで言うなら、もう半ば答えを言っているようなもんなんだから。
その「空いている時間」に「論理」を教えてもそんなもんだよ。

「論理」というか、高度情報社会を生きる市民としてのリテラシーだね。
学校がまさに権力機関だったから、時代の趨勢に抵抗しているだけで(あとは、学校への一元化で現場が疲弊している)。

 

markovproperty.hatenadiary.com

理系の文章がどうとか意味不明なこともさんざん言われたが(それは明治以来のただの勢力争い。)、そういうことではなくて、

www.kokusen.go.jp

わかりやすく言うと、これを読んで生活を律しなさいということです。

イマドキ若者事情-消費行動を探る-[PDF形式](439KB) 【執筆者】原田 曜平(信州大学社会基盤研究所 特任教授)

ネット情報に様々触れる中で、自分を見失わないようにしなさいってことです。
「文章が読める」かどうかというよりも、貴方にとってその情報の価値を適切に評価できていますか?ということです。そのためにはもしかしたら、テキストの相対化と通じて「読者」たる自己の相対化を求められるかもしれない。「読む」よりも「評価」。
もちろん、それは「読む」ことを通じて行われるのだけれど、その「読み方」は今までのような「文学的鑑賞」ではないよってこと。「評価システム」に沿った「計算(機械的手続き)」というニュアンスの方が近い。
別の言い方をすると、このとき「文脈」は(ただの)「主張」或いは「口説」となる※。
「文脈」に依存してたら騙されるだけやろうが、あほか。ええ加減にせえ。

ひろゆきがウケているのは、おそらくこういうことじゃないかな。相対化することで、(鬱屈しがちな未成年が求める)「フェアネス(対等さ)」を  しているからはないかな。これは若年層に限った話ではなく、「ルールに従う」ことが「面前の勝負に負ける」と考える人がかなり多くて、学校でもそれを教えている節がある(エリート校しか経験のない大先生方には想像もつかないだろうけれど)。だから、「正しく」彼らは反応しているだけなんだよ。統制的な社会ですでになかったとしても、情報の支配領域が乏しいと、疑似的にそういった状況に陥る。だから彼らは「負けない」ためのエートスを持つんだよ。
そういった社会に於いて、リテラシーが求められているんです。
大先生方の求めてやまない「美しい国語」は選択科目で十分なんです。
騙されんと生きることの方が大事や。
あんたが面倒見るんかって話や。
いつまでも戯言を弄するんじゃない。

👇統制的な社会では、「尾ひれ」のニュアンスこそが大事。それが「昭和」のお笑いでもある。

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そうすると、様々な文学批評の教科書があって、👇が(変な意味じゃなく)ウケるかというと、サンデルに通じる話じゃないかなと思う次第で、北村先生は彼女自身の思想背景とか理解があるからサンデルと「同じ」と言えるかわからないけれど。
コミュニティーのもっとも重要な機能のひとつは「承認」だろうから。
良好な関係の中で良い方向付けを求めることが大事なんだろうね。

僕のようなおっさんが興味深いのは、むしろ小谷野先生のアマゾン評であって、あの人やっぱり、ひと世代前なんだよね。「昭和」っぽいんだよ。
あぁ、この人だと、そうなるなぁって。