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それは社会進化を考えるにあたって、「意思の力」と「意図の力」を分ければいいんじゃないかね。

意志の勝利 - Wikipedia

「意思の力」は神秘主義実在論)で、「意図の力」は道具主義だよ。

liberal-arts-guide.com

 

本田由紀の謂う「能力」は、経験的であっても分析的ではない。

学校は、社会構成員の再生産装置に過ぎないから、社会が共有技術(知識も運用されて初めて「知識」たりうる技術である。)と共感で成り立っている以上、それを観察・評価し(すなわち、観測し)、補足するしかない。
ただし、このとき、それらパラメータの操作項としての目的物たる「児童」をどうとらえるかで、「能力観」にバリエーションが出るに過ぎない。
また、「装置産業」としての限界が、「共有」の限界に表れる(それが主体の文脈に乗ると「被害者」と認知されるのが、昨今の状況である)。
つまり、そもそも学校は「能力」を問う以外はできない。
単なる経験の有無であれば、公民館で済む(公民館の目的がそれではない)。


格差社会・競争社会の背景には、それを肯定する「能力主義メリトクラシー)」がある。「能力」は個々の努力だけで得ることができるわけではなく、そもそも生育環境に大きな影響を受けることは各種調査から明らかとなっている。

残酷で絶望的な死をしっかりと描く…今、世界が「イカゲーム」にハマるのはなぜか (2/2)

 

最近もマイケル・サンデルが指摘するように(『実力も運のうち』)、こうした能力主義メリトクラシー)は自己責任論を生じさせやすい。「やればできる」というメッセージ(能力主義)には、「できなかったら自分のせい」という苛烈なメタメッセージ(自己責任論)が潜んでいる。

残酷で絶望的な死をしっかり描く...今、世界が「イカゲーム」にハマるのはなぜか

結論から言えば、高度情報社会だから。
高度情報社会とは、情報格差が解消した社会のこと。
物理制約、技術制約で、情報環境が閉じられていたころとは変わっただけだう。

わかりやすいところでは受験で、数十年前には、地方と中央の享受できる環境の差は歴然としていた。つまり、このころは、情報空間を閉じる「環境」が目に見えて在って、それは「情報空間」として存在していた。「地方に住む」とは単なる住環境のオブジェクトの差異のことではなく、「生き方の選択」だったのだ。

それが経済発展とともに準備が整い、「情報革命」によって、「中央」と「地方」の差異が劇的に解消された。

私が幼少のころは、東京から汽車(電車※)で2乃至数時間のところに住んでいても、「(受験のため)進学塾」に通うのは「村からつまはじき」の目にあっていたのだが(ここに巷間言われる「メリトクラシー」に違和感を覚えるのである。むしろ「昭和」の方がそれはひどかった※)、知り合いの子は飛行機で3時間のところに住んでいて東京の有名進学塾のサテライト校に通って満足な進学を果たしたのだ。これは今取り上げている情報環境を直接

※「昭和」のことは、電化が進んで久しい頃でさえ、地方ではまだ「汽車」と呼ぶのが常識だった(そう呼ばないと、「『電車』で間違いないけれど」怪訝な目で見られる。それが地方であった)。もちろん、東京でそんなことを言うと、小ばかにされた。情報格差の一例である

※しばらく前に、読書感想文の書き方指導がネット上で話題になった。
「なぜ、いままで教えてくれなかったのか」と評判になったが、それこそが「メリトクラシー」であって、「できる子」と「できない子」を分別するために「(わざわざ)教えない」のであって、「教えれば区別なくできてしまう、、、、、、(できて当たり前である)」からである。
これは単純に学力評価の問題ではなく、当然に、社会構造を反映していて、古典的ヒエラルキーは情報の非対称を前提とした情報支配のことだが、「教える」「教えられる」すなわち、「情報に通じる」ことに特権的意味合いが付与されていたのだ。
権力に依存した選抜制度があって、それが情報から構成されているのである。
簡単に言うと、様々なテストを仕掛けて「わかる見込みのある者」を選抜し、その過程で、寡占的乃至独占的に情報を伝えてゆくことで、徐々に不可避かつ  な格差を作ってゆくのだ。
「情報革命」が「革命」なのは、この権力構造を揺るがしたからである。
これがもっとも効果を発揮したのは、おそらく「大阪の没落」であって、「東洋一」「世界一」を誇った大阪の街の隆盛は、東京の後塵を拝するどころか、いつのまにか「万年二位」でさえなくなりつつある(が、潮目は変わってきた)。
バブル崩壊後に大阪に行くと、「東京でこんなことはない」と早々に暗くなるミナミの街に嘆息する知人がいた。
当時よく言われていたのは、本社機能の東京移転であって、特に大蔵省の指導のもと銀行業界に著しく、住友銀行が最後まで地元で頑張っていたのが印象的であったのだ。

それくらい情報格差は決定的だったのだ。
そのころは、情報支配こそが「能力」であったのだから、メリトクラシーと呼ぶのにふさわしい。
今は、(メリトクラシーではなく)マーケット主義であって、「ムーミン問題」の1点に拘ることがそれである。そんなことは大学の裁量で良い。
そこにあるのは「平等」は「完全市場」でしか達成できないとする信念である。
それまでは「完全市場」は技術的にそもそも不可能であったところ、それを逆手にとって、情報支配を行っていたのであるが、技術が進歩して「(情報)能力主義」が「(現実的な)完全市場(主義)」に移行しただけである。

さて、ここで言いたいのは、そういうことではない。
ハイパーメリトクラシーである。

そこで言う「完全市場」とは「統一市場への一元化」を伴っているらしいのである。
それをもっとも先鋭的な技術で実現しているのが中国であるが、その技術が「普遍的」であることが必要十分条件であって、日本の場合、アナクロであるが、学校制度がそれを或る程度達成している。
様々な社会要因によって、社会評価の学校への一元化が起こっているようだ。
学校で行うのは学科だけではなく、若年層のボランティアの大きな担い手はすでに学校であるし、もちろん教育課程外の活動である部活動がむしろ「主活動」のような体裁だ。それは社会構成と密接に関係しているからである。

つまり、今の日本で起きているのは、メリトクラシー・ハイパーメリトクラシーというよりも、学校への一元化を伴う完全市場化ではないかと思う次第である。

例えば、自治医大受験の合格者数に女性が増えるべきかを考えたときに、それは雇用と無関係でよいのかは考えられてよい(防大受験をして、一般企業に勤めることが望ましいだろうか)。
今までは、どこかの医大では、事前の調整が行われていたらしいが、これからはマーケットに任せるらしい。医療の経済に外部性が存在するかどうか。

「情報革命」後に於いては、マーケットこそ信頼できるという人が増えているようである。