『シオン賢者の議定書』と「否定論法」の系譜              帰納法の研究

 

 
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「体系だった効率的な学習」は大人のため。

この(仮言)命題(仮言命法)は発話構造によって成立している。

もとの構造はトートロジーで無内容なのだけれども、だからこそ、或る記号、即ち{「}{」}を利用することで、機能的に否定論法を構成し得ている。
《もとの構造がトートロジーで無内容》だからこそ《否定論法を構成し得ている》とは、統語的に整理すると《トートロージー》だからこそ《できる》であるが、これが発話構造の帰結であって、(「発話」という)行為論のレベルである。即ち、言葉の内容それ自体が行為という  を得ることによって所謂「言外の言」をも指示することができるようになる   である。 

 このような構造を持つ(仮言)命題(仮言命法)において、

 体系だった効率的な学習は大人のため

ではなく、

 「体系だった効率的な学習」は大人のため


である利益は何であるか。
{「}{」}は対象化して取り上げるために、(対象とされている)語を通常の文法上の働きでそれの置かれる文の一要素として統合するのではなく、例外的に限定して指示するときに用いられ、構成的には、一般的な意味とは別にその文脈において限定的な意味を(敢えて)付与するときに用いられる。 

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題

  • 作者:野矢 茂樹
  • 発売日: 2001/05/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

発話レベルにおいてはまさに()内に置いた「敢えて」 が言語外言語としての振る舞いとして強調されるのであって、まさに言語外言語それ自体(言語外言語が「在る」という事実自体)の指示する「それ(そこにある何か)ではない何か」を指向する否定論法を暗に構成する。

先ずは、

 体系だった効率的な学習

を統語的に考えると、

【1 st】学習
【2nd】 ↳体系だった
【1 st】学習
【2nd】 ↳効率的な

であって、同格であるが、意味論上は、学習(効率的な学習(体系だった学習))
と内容量に差が出る。これは、メタレベルにおいて、「学習とは何か」「効率とは何か」「体系とは何か」を与えないと、「学習」「効率」「体系」を統一的に扱えないからである。即ち、

 「学習とは何か」の文脈(学習(効率的な学習(体系だった学習)))

であるからである。
結論を急げば、「学習」とは、再現の方法として構成される、その効果から求められる(統一的なパラメータを与えられた)評価群と対応した繰り返し可能な行為群のことであり、したがって、効率的であることが(「効率」が評価を含意していることから)すでに含意され、
「体系だった」とは「秩序だった」ということであって、
反対例を端的に適示すると、好き勝手模倣するだけでは役に立つこともたまたまあるが無駄も多い、となる(なお、国語文法上は、限定を指示して外延(外の選択)を示唆する「だけ」と、それぞれ選択を含意する「は」「も」が効果的である)。
ここで注目されるのが、「効率」の言外に持つ強制性と、「体系」の言外に持つ権威性である。発話という(積極的な)行為レベルにおいて、(積極的な)反強制と(積極的な)反従属、即ち(積極的な)反自由を指向する。この自由が反語的な意味合いを持って(はじめて)内容が示唆されることが本質的である。これが否定論法で、「でない」がゆえに(「である」と対置して)決定不能である(「『決定可能』《でない》」ことが(即ち、決定不能であることが)、否定論法の指示することである)。

疲れたので休憩


 なんでわざわざもったいぶってこういったことをくどくど言うかというと、これは端的に言うと「カルチャーセンター」或いは例えば経済産業省管轄の「各種学校」の類であって、もちろんそういったことは社会的に無駄ではなくむしろ有用な場合も多いが(例えば、外語専門学校であったり、犬のトリマー専門学校が不必要かというと、"需要はあって"、社会的に求められている。)、戦後教育の中でこういった試みが文科省の「教育」の中で行われてこなかったかというと、そんなことはなく、こういった話は「反教育」であろうとそこでいう『教育体系』の評価に照らして位置付けられなければ対象化不可能なのであって、ならばそういった位置づけが技術的に何を含意するのか(即ち、技術的に要素の意味づけを行う体系的に)述べられなければならない。つまりこれはどこまでも「体系化」される技術問題であってそこから逃れたとき無内容な或いは直観的な心理効果しかない。

 要は、この場合、否定論法に終始している以上、行為論であり、行為論である以上社会的評価に属さないのであれば誠実ではないのである(そして、それはこの(仮言)命題の文脈上、まぎれもなく、大人の仕事である)。

そのような「反技術」(「認識」の枠組み(技術)的理解の反措定を含む。)を称揚するのが浪漫主義であって、その根は、神秘主義である。要は、(よくわからないがー「よくわかる」が技術的であるため)「何かある(に違いない)」という確信に根差して、技術の原理上必然的な陥穽を突いて敢えて評価する姿勢(行為論)のことである。
これは、科学上許容されるべき誤差に怯える姿勢に似て、ともすれば拡大解釈を生みやすいので、注意が必要であると思う次第である。
👇ナチスドイツを打ち砕いたアメリカは、自然法的な

ちなみに、ドイツ第三帝国 は、彼らが主張したように「ローマ」「ナポレオン」に続くのではなく、歴史的には、「ビスマルク」の直系であり、サバチーニ的な意味で「神聖ローマ帝国」の系譜であるが、要は、名実の権威を駆使した裏口からの権力介入の系譜であり、「平凡」なテクノクラートの系譜である。
少し遡って、ヴィクトリア女王アルバート公子の関係を見ても、そのドイツ人は民族的野心を持っていたのであるし、一方のイギリス女性は「ヨーロッパの祖母」として君臨したのである。ビスマルクは近代的ドイツ人らしくそれを観念的に達成しようとしたに過ぎないとも言える(結局は、個人的資質に依存した、おためごかしに過ぎなかったーから今度はそれが「明治憲法」として反例的に内部化されたが(「天皇主権」はドイツ人によってもたらされた「反ビスマルク(政治的個人)」である。)、それが解釈的に(美濃部というまさに、、、政治能力に長けた人物によって、体制内エリートとともにー対立した上杉もかつてはそうであった。)否定されることで、ナチスドイツと運命をともにするという、奇妙な歴史をたどることとなった。戦後は、日本から独立した韓国が、日本と出発点を同じくしつつも、徐々に革命路線へ転向し、イギリス/アメリ憲法の内実をレーニン主義革命憲法に改変しそれを戴いて自己規定しつつ(その「レーニン主義」については、南長老会の創設者の一人の息子であり「神の子」を自認した進歩主義者である、アメリカ人ウッドロウ・ウィルソンアメリカを代表する者として支持したのであってギリギリ許容されるにしても)、憲法憲法裁判所を明記する接ぎ木を為すことで、技術的な飛躍を成し遂げたーそれこそ「ドイツ的」であるかのように)。
アレント的な意味で

そもそも専門知識はすべて独立の体系になっているのであって、そのような専門知は大人の独占物である。
そして、
知能は、いつも言うけれど、簡単なことを外連味なく理解する能力に留まる。
専門的になればなるほど、学習効果の方が大きく、そのような学習の成果しか社会的に有用じゃない(マリリン・ボス・サバントとポール・エルデシュパラドックスはただの遊びのレベルだから成立する。「同様に」数学の話であっても、専門知識の必要とされるレベルでは、当然逆転する)。
子どものうちは、興味の対象を広げたり感情面の成長も大事で、自由を与えることに認知と情動の発達から意味があるけれど(無駄が無駄でない。)、そういう研究は連綿と続いていて、いきなり新しい発見はおそらくない
むしろ新しい発見は技術の問題であって、だから、今日的に注目されるのであるが、こういった主張自体はかなり古くからある。

技術の進歩で教育の可能性がすごく広がっているのだけれど、こういうふわっとしたコマーシャルなものが先行しちゃうんだね。
「悪い」とは言えないけれど、みなさんのご期待に真に沿えるものかどうかは疑問符が付く。
騙されているとは言わないけれど、煽られている。「成長」というのは長いスパンの話であるからもう少し冷静になった方が良い。