神判としての入試から


非常に残念なことですが、違いと思います。

そこで実は述べられているのは、運/格差の選択なのです。
いま日本の教育環境で問題になっているのがPISAショックで、その表れの一つが、欧米で標準的な、まぐれ当たりを低く評価するために、前後の問題の正答率で系統的理解の度合いを測ってウェイトを置く(失念いたしました。)方式の導入です。
このとき、系統的理解には体系的な知識へのアクセスにコスト偏重が見られるはずですので、格差を自ずと導入することになります。見た目には生得的な能力差に見えますが実は経路依存性を持つがために成長するほどに学習効果のほうが顕著になります。そして望ましい学習効果を得るには(知的能力以外の)周辺能力の獲得が意味を持ちます。
PISAショックにはそういうことも含まれると思います。

我々はプロ野球なら素直に、トーナメント戦よりもリーグ戦を、実力を素直に反映するとして支持するのですが。なぜか、入試では、一発勝負を好みます。それは少なからず運に左右されるはずですが、このような「運」という(現代的な神の)平等を好むことは実は珍しいことではありません。
リトバルスキーは、サッカー会場の酷暑を、「平等」と擁護しました。
それは合理的な判断でしょうか?
それはかつての「兵站の軽視」と同質です。酷暑ならば酷暑なりの対処をして臨まなければなりませんが、それこそまさに兵站問題だからです。リトバルスキーは個人の心身のタフネスに過ぎないと述べました。ドイツ人らしいですね。
このようにして、実は背景に、「運」という平等を容認するか、そのような平等を排除して「格差」を容認するかの問題があるのです。
そして、我々は「格差」を社会的に支弁して賄おうとします(成功例もあります)が、それには限界があるのです。
我々は徐々に「運」という非合理的な平等を排除しようとしているのです。
それは直近では試験の採点方法に現われようとしていますが、まさに日本人の公平感覚がそれを阻んでいます。
我々は学業においても「リーグ戦」を導入し、それで系統的な結果を残せるのであれば、直ちに「トーナメント戦」を廃止すべきなのです。野球の「トーナメント戦」はあくまで興行だからあって、運否天賦であるがために、射幸性に根差して面白いのです。彼らはプロであるためにそこで勝つこともまた求められるのに過ぎません。実力の証明ではなくプロであることの証明です。
しかし、学業は興行ではありませんので、その意味での「トーナメント戦」はもとより必要ではありませんが、望外の結果として、それに臨む「成人」であることを求められるようになっているのかもしれません。それは人間ピラミッドがやめられない理由と同じですし、かつての徴兵制の果たした社会文化的役割と同じですが、現代の高校生に必要だとは、私には感じられません。
しかし、それは自ずと、「格差」を導入することになります。 

 

徴兵制と近代日本 1868‐1945

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日本神判史 (中公新書)

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中世の神判―火審・水審・決闘

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口語神判記実 (1984年)

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 👆「入試」を巡る言説を集めると、100年後には、こういった著作をあらわすことができるかもしれません。



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