漢字と礼学

「光宙」(名)を何と読むか
➝フリガナの意味(法定上の登録義務ではないー附款ではなくあくまで補助的な説明記事)

だから、この届出を「名前の読み方」で(直接)不受理扱いできない
『使用に際して著しい困難(使用者、非使用者の精神的苦痛を含む。)を伴う恐れが懸念される程度に、社会通念上不適切』
として受理を拒否するような運用を行うには、記名に付随する社会観念が制限上の目的とされるのであって、音は総合的に※その不適切性を亢進させるかどうかで、(間接的に)関わってくる。
※「総合的に」とは、複数のパラメータ操作の結果を合計した判断ということであり、それ自体が曖昧なのではなく、(定量的ではなく)定性的なパラメータを使うとき、技術的に標準化されていない場合もありまた、一意的に従うのではなく、何に従うべきかを個別の権能として許している場合もある。

一般的な使用のレベルでは、「ひかちゅう」なのか「ぴかちゅう」なのか、それだけではいずれが相当するかを判別できない混乱が生じることを予想するのは難しくない。
そこに表音文字である仮名を使用する利便がある。
このとき、表意的なニュアンスを含意するならば(一つの指標としては、その意味から考えて言い換え可能かどうか。)平仮名で表記する、含意しないならば片仮名で表記すると一応のルールを設けることは可能である。
要は(もちろんーどちらも元来表音的なのでー括弧付きであるが)「表意的」ならば平仮名、「表音的」ならば片仮名といった具合である。
例)わんわんとワンワン
逆に、表意文字とされる漢字にも、その構成要素に音素は在る。

 

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孔子儒教)の礼学を思い起こさせるが、情景(有形、無形の外観)が催す観相や感慨でなければ伝わらないことも認めているのである。礼では本来音楽を重視する。
漢字と礼学の違いは、そのように得られる概念の表現に関して、媒介として記号を用いるか舞台装置を用いるかであり、(表現主体に対置する)間接客体(「ヒトに」)として有時間的なのは共通するとしても(文字を「読む」にしても、音楽を「聴く」にしても、式典に「参加する」にしても)、直接客体(「モノを」)として無時間的か有時間的か(読まれる「文字」、聴かれる「音楽」、催される「式典」ー文字は(書かれて初めて文字であっても)読まれて初めて文字ではなく、音楽はその構成がもとより在るのがふつうであるが(即興音楽でなければ。しかし、それを考えても)演奏されて初めて音楽である。文字の方が基礎を為す要素性が強く、音楽の要素となるー音が文字の要素となっても、それによって構成された文字は、音楽の説明要素(構成要素ではない。)となる)。
音楽=音+音
記号=記号+記号
音は音によって構成され、記号は記号によって構成されるとき、その作為性と伝達意思が標準化される。また、記号は、「音」を形式上対応させて標準化できるために、間接的にその体系に取り込むことができ、したがって、音楽を説明することができる。
また、記号は記号によって構成させる内包性(と外延)を原理的に持つがゆえに、再帰性を持つ。

したがって、礼学は、概念的であり、形式的である。いわば、漢字の、或いは漢字の  の   、舞台化である。記号によって伝えようとする作為と(或いはその作為を超えて、また直接の目的として、或いはそのような目的を持たずに※)伝えられる何かがあるとき、礼によっても同じと考えられるとするのが、礼学の本質である。ゆえに、礼にとって音(楽)は本質的である。
※直接の目的が必須ではない。或る式典は、直接的には目的中立的に、「式典を共有する」こと自体が目的であり(式典は式典自体を再帰的に目的化することができる。)、そのような(抽象化された、したがって個別の目的に応じる付随的性格を持つー再帰性の効果)一斉行動の必要が目的である。或いは、「社会」とは係る付随的な性格の何かであるとのメッセージの共有である。

なお、この再帰性に逐一対応させる斉一性を備えることができる体系ならばあることを十分説明できるようになるが、記号操作とはいずれにしても似たようなことをするものである。「考える」とは、内包、外延、独立、再帰、逐一(斉一)、任意、随意と言ったことを「操作する」という強制的な何かのようである。