「当たり前」なんだよ。

『教育現場は困ってる:薄っぺらな大人をつくる実学志向』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター

コメント欄が面白いよね。

「困っている」云々言い出したら、サボタージュを容認するだけ。

教育現場が「困る」なんて当たり前なんだよ。

総合学習の時間に「困って」出てきた結果が「英語学習」(ただし、英語の教育自体の歴史は古く、ここで言っているのは、「早急」な小学校の「英語科」設置に繋がったこと。
本来、総合的な学習の時間は、ここで指摘されるような、「考え」「調べ」「発表する」、要は、教養課程のことで、それぞれ「主体的」「能動的」「積極的」が人格上の目標として付随していると思う。それに「困った」のが教育現場です。なにをかいわんや。だから、ドリル形式に「質を落とした」のが厳然たる事実でしょう。
詩的な表現では、すごく「美しいもの」だったんですよ?〈世界〉に積極的に働きかけ、知的な感動を共有する、という。学校の先生には難しすぎただけです※。

※そこで出てきたのが、「全国一斉共通テスト」の(これ自体は別文脈かも知れませんが)活用です。要は、「参謀本部」と「軍隊」を分けたわけです。研究者を大学に、技術者としての教師を現場に。できないなら、できるところが専門的にすればいい。それを或る意味邪魔しているのが「国立」云々ですが(もちろん、「邪魔している」とはいいません。「一括して引き受ける」と言っているだけで)。


一方のやり玉に挙がっているアクティブラーニング(討論)に関して言えば、これも「英語学習」と同じくらい、或いはそれ以上に歴史が古く、それこそ戦後のGHQの指令にまでさかのぼれるでしょう。「民主的教育」の一環です。
アクティブラーニングと討論を同じにすべきかということはありますが、当然に、アメリカの学校での様子を参照すべきでしょう。

そのとき、『アメリカと日本は違う』という「日本特殊論」は小谷野先生が看破していますが、ほとんど聞くに値しません
いま目指されているのは、人権教育だからです。「個人化」なんて日本の文化に合わないとは200年言い続けられたことです。これに関しては、本当に噴飯ものです。

本当に何を言っているのか。このての「教育大学系」発の新書に読めるものが少ないのが気に係る。本当に、Good東大とBad東大に分けて(Good東電とBad東電の揶揄)、一度解体した方がよいのではないのか。)

そのときは、構造問題に着目するのが正道でしょう。