誰が教育の「被害者」と言われてきたか(「被害者」の人権論)

増淵の延長にあること

 

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 そう考えると、「ゆとり教育」は、1970年代からあった、「民主的教育」以下「自由」が「自発」に関わるポジティブな教育施策群と、校内暴力と対になった「管理教育(批判)」といった「自由」が「能動(の反対としての受動)」に関わるネガティブな教育施策と、比較的新しい「英語学習」或いは「高度理科教育」といった「自由」が「柔軟」に関わるテクニカル、エフェクティブな教育施策群とが結びついて、「能力」発揮の平等化を名目に、文化資本を強化するうえで効率的(危険負担的に)に進められたのかもしれない。
(戦後の「能力」主義の実相が、著者自身の言葉遣いにも現れているかもしれないのは、驚くことでないのかもしれない。※)


自分の興味から言うと、「増淵教育」への見通しがさらに増した気がする。
ありがとうございました。


教育の理想を本気で語ることができたのは、戦後しばらくだったのかもしれない。
いつからか。「理想」(括弧つき)が語られるようになった。
どのようにしてか。
「彼我者をなくす」ことを継続して。
すなわち教育の文脈化である。
これはある種の「否定論法」だから、広範な利得を結び付けやすかったのではないか。
一方で(「理想」とは異なる)「目標」教育が出て来る。国際順位の台頭だ。
そうやって、文脈上誰もが「被害者」を名乗れるようになった(実際はさておき)。

ゆとり教育」によって進展した文化資本「格差」の利得者も、「学校の情報独占」に基づく「平等教育」の「被害者」を名乗れたのだ。「被効率的な教育内容」は「機会損失」を招くが、それだけなら「被害者」を生まない。学校という伝統的な承認機関(中間団体)を経て、初めて人権問題となるのだ。

そしてまた、「ゆとり教育」の反省も「被害者」の観点から吟味されたのだ。
ならば、この教育の行方は、誰もが自分は被害者でない、、、、、、、、、と思えるところにあるだろうか
(なお、上掲『教育格差』ではそんなことを何一つ言っていません。先行研究にあった『思い付き』という言葉に触れているだけです)