僕なんかが着目する、すなわち、『山月記』の読解に於いて戦後の国語教育が目指してきたものを、戦前に法学が果たしてきた役割とその結果実体化されてきた制度の変遷から考えたい者にとって目が留まるのは『「人名」はできる限り削除』の項目だよね。

まぁ、巷間の近代史は「英雄列伝」ですから。

それを打破するのは賛成。
ただし、それは「英雄列伝」だから実社会の状況が見えてこないのであって、僕が敬愛してやまない「一流の二流人士」(というと失礼千万だけれど)渡辺政盛が見えないと、大正デモクラシーと昭和デモクラシーのつながりがよくわからなくなると思う。

ハイカルチャーにおける太宰治の果たした役割とサブカルチャーにおける梶原一揆の果たした役割があると思うけれど、それは結果論であって、経緯が見えてこず、徒に「昭和ファシズム批判」を帰結する。
ところが、具に見ると、大正デモクラシーは主に明治の体制批判のニュアンスが強くて(白樺派の気分がよくそれを表している。)、決してその後訪れる昭和デモクラシーからファシズム体制を拒むものではなく、むしろ或る意味当然に準備するものであった。

そのつながりへの違和感を解消できるのが渡辺政盛であって、トリックスターなのだが、これが「二流(サブプライム)性」の本質だろうと思う(渡辺が決してファシストではなく、当世の議論に飽き足らず、素人レベルではむしろ常識に思える美しい人間観を信奉しただけの、民主主義者であったことが、大事である)。
社会を彩ったこういった人々に着目するのは、決して歴史理解の後退にならないと思う。

 

ただ、「坂本竜馬」の場合は、聖徳太子とも違って、司馬が造形した明らかなフィクションであるけれども、それは『竜馬がゆく』を読んでも『この若者が今後どうなるか著者にもわからない』と明言しているし、「竜馬」に改名するなど造作を施しているのであって、歴史的事実に依拠するならそんなことはありえないのであるからそうではないとわかりそうなものだが、歴史的事実に基づいたフィクションであるとき、どこからどこまでがフィクションであるかはわからず、また司馬の歴史的事実の理解にも瑕疵があったものだから、話が混乱しやすいのであった。

ただ。じゃあ、薩摩藩と富山の薬売りの関係を教科書に載せてくれるのか、「海の百万石」銭屋五兵衛の世界史的な意味を直ちに紹介してくれるのか、北越戦争の歴史的意味を直ちに解説してくれるのか、というと、そうもならないだろう。
まぁ、歴史の教科書は、いまだに「中央史観」なのであった。

北越戦争ってすごく大事だよ。
これね、この後、加賀藩が百年準備した藩の資産が没収されるんだけれど、それが、陸大卒業席次3位の前田の殿様の葬式の時の財産没収に影を落とすわけだ。これ、東條の私怨で理解しちゃっていいの?ということ。
「中央」にしてみれば、「当たり前」の感情だったかもしれないんだよね。
これが、戦後の政治家辻の評価にも?少なくとも、バカな学生運動よりは、旧軍によるクーデタの方が「怖い」やろ。
森喜朗さんと同じ選挙区やぞ。どれほど異様な人気だったか。
学生運動?革命?
辻はあの年齢で実際に軍事指導に行ったんや。
リアリティが違う。辻だけが「ゲバラ」になれた。

 

地元の西原先生

しっかり「美大ブーム」にも乗っかります。
後進の追随を許さぬリアリティ。
お母さん、鼻提灯できてます。
年取ったら欲しいものって変わるんだよな。
マッサージの資格と管理栄養士の資格が欲しい。
あと骨法も勉強したい(格闘技じゃなく)。