河合継之助と石原莞爾

 

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本が4冊届いた

このシリーズ、思った以上に「あっさり」していて、値段相応かと思ったのであるが、それでも十分すぎるほ楽しめる。

34 長岡藩は最新兵器で新政府軍を圧倒したというのはウソ

Q.なぜ、中小藩が善戦できたか、
A.長岡藩が善戦したのは、兵器の質が高かったからではなく、指揮官である河合継之助が優秀だったから(P15)

としている。これには2つの側面があって(P153)、

  1. 家老の河合継之助が優れた采配を振るったから
  2. 河合が餓死すると長岡藩は降伏を決断している

1の言う「優れた采配」とは、具体的には、『河合は山地に陣を構えて天然の利を活かし、戦いを有利に進めた』(P155)のであって、ここらへんは、「賤ヶ岳の戦い」の佐久間盛政を思い出させる。

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2は加賀一向宗との一連の戦いを思い出させる。謀略(敵の将を撃つこと)は有効な戦術なのだ。これには、前段があって、「藩内の恭順派が工作活動を始め」(P155)、「すでに兵力はついていた。河合が足を負傷して戦線を離れると、指揮官不在の軍は各地で敗走を重ねてゆく」(〃)ということであるが、もとより藩内は

長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する

河井継之助 - Wikipedia

このような状況であり、一揆に関してのイメージを誤るわけにはゆかないことは、206頁から「47 世直し一揆は幕府への反発から起きたというのはウソ」で解説されている。どうにも河合に継戦を裏付ける人望が薄く、複雑な勢力争いを胚胎していたのは、七尾城内の顛末を思い出させる。「その割によく頑張った」のはむしろ、山縣の指揮する官軍が寄せ集めに過ぎなかったせいかもしれないし、山縣からして大軍の指揮の仕方をよく知らなかったのかもしれない(加賀藩は一個大隊を派遣して、分散させられたため、それを転換する部隊を派遣するも、交代がうまく行っていない。要は、グダグダなのだ。山縣は奇兵隊を指揮して名を挙げた人物だった。そういった意味で、奇襲合戦がこの山縣と河合のやりとりのクライマックスだったのだろうと思う。だからこそ、山縣は陸大を立ち上げた。それを知って石原が河合継之助を云々したとしたら、これほどつまらない話はない※)。
※「世界最終戦争」もヒトラーの「我が闘争」とさえ比べられるのかどうか、北一輝はどうだろう?要は、この時代の参謀にあって、あまりに「素人はだし」なのだ。そしてその戦略眼は田中新一に受け継がれるが、アメリカへのこだわりは、実のところ、終戦とも密接にかかわっているのかもしれない。

日本軍は、ヤルタ会議の内容を把握し、ソ連参戦を数か月前に知っていた(し、原爆投下の予定も把握していた)らしい(P54,新説No.7日本軍はソ連軍に負け続きだったというのはウソ、P57,新説No.8日本はアメリカの原爆投下を知らなかったというのはウソ)。それでもソ連と向き合えなかったのは、米国を気にしすぎたというのが、上掲の本の解説である。

 

要は、これは、近世の戦い方なのであって、近代戦の参考にならないのだ。
独ソ戦ソ連が苦戦したのは、必要数の将官が枯渇していたからであって、一人の英雄を欠いていたからではない
それが重要なのである。どう考えても、陸大の設立趣旨に鑑みて、卒業論文に現わす内容ではない。石原は、戦術問答が好きで、新聞に解答案を投稿したりもしたらしいが、どうにもピントあずれているように思えてならない。藩校の代わりに陸大が必要とされたのではないからだ。近代の意義を理解できていたのだろうか

少なくとも近代戦の模範は、石原ではなく、阿南であった
石原は「ほぼ評価できない」という感慨を周囲に抱かせただけなのではなかったかと思っている。
真珠湾の「スニークアタック」とも関係が深いが、この頃、陸軍がもっとも評価していた幕僚は、マレーに集められたのだ。(「卑怯」と言われても)絶対に勝ちたかったからだ。

石原莞爾秋山真之はファンタジーである(が、石原は、この頃の陸軍がどのような指向性と状態だったかを物語っていて神秘性は薄い―すなわち、政府の一側面を担っていたのであり、兵員が増えるにつれ地方閥の勢力争いが大規模化したのであった。それらすべてが石原の関知する所ではない。石原の軍への好き影響はおどろくほど少なく、悪い影響は意外なほどある。石原は、主流派になれずに傍流から影響力を行使せんと企むのがせいぜいの人物だったのだ)。