河合継之助と石原莞爾

 

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こういった河合継之助の戦術は、例えば、「朝鮮出兵」と比べたらどうだろう。

豊臣秀吉による「朝鮮出兵」は、世界一の軍事大国明と世界二位の軍事大国日本が戦争した世界史的な出来事だったくらいに思っていたが、

  1. 世界一位の軍事大国日本が、スペインを恫喝しつつ
  2. 同じく世界一位もしくは僅差で二位の明が、日本の「てつはう(火縄銃)」と「集団戦術」という未知の戦いに戸惑いつつ、勝ち負けを分け、
  3. 最終的には、ゲリラで(もとより困難だった)継戦を不可能にした朝鮮が「勝利」した
  4. 結局、日本は、内戦と築城技術を持ち帰ったと言われている

くらい、、、の話のようだ。まるで「逆元寇」である。

これと実は、youtubeチャンネルをみて、かなり思い切った「まとめ」である。you tubeは歴史の研究家でないためか?知らないが、若干の温度差がある。

本文から抜き出すと、

  • 文禄の役における秀吉軍の兵力が約16万人だったのに対し、明・朝鮮連合軍の兵数は約25万人(P104)
  • 慶長の役でも倍近い兵力差(〃)
  • 兵装で勝っていながら(〃)
  • 氷点下の気温と凍傷(〃)
  • 輸送手段が人馬(〃)
  • 朝鮮全土でゲリラ的な蜂起(P105)
  • 伊達政宗が「水のちがい候ゆえ、人々が死に失せ申候事」(〃)

となっている。「朝鮮が勝利した」と断言したが、普通は、秀吉の死で終わったと見るのであって、本でも「秀吉の死で1597年に終了した」(P105)とちゃんと書いてある。あくまで「逆元寇」とみなしたときの、ひとつの言い草である。継戦が不可能だったというのが実情だったろうから、「国土が荒廃した」(P105)が辛勝というか苦勝と評価した。
ただ、「明国は戦力の激減で異民族の侵攻に苦戦を強いられ。40年後に滅亡」(P105)とあるのはどうだろう。わからないが、明が近代的な総力戦を戦ったわけでもなく、全体の兵数を知らないのでなんとも評価しづらい。明へ侵攻していないのだから、産業的な基盤が影響を受けたように見えない(知らない)。そもそも、秀吉軍が数倍の兵数を誇る明軍(なお、本文では「明・朝鮮連合軍」)に「幾度も白星を挙げ」(P104)たと言っても、明軍を殲滅したのかどうかわからない。逃げ出しただけかもしれないのだ。ならば「激減」とは統制乃至統治問題で、朝鮮での明軍の再統制が執れなかった、また本国での統制が執れなくなったということのように思える。
つまり、やはり戦争は「勝ち負け」ではなく、「盛衰」であって、明の国としての勢力が衰微したのだ(より詳細な実情を見てみないと、実際は、わからないが)。この点でも「逆元寇」だったと思う次第である。

ここで「一位」「二位」というのは、ただのレトリックで、もちろん戦争は、これまで見て来たとおり、自然環境の中で有利にことを進められるかに推移の多くを依存しているのであるから、闘う場所に大きく左右されるのであって、一概に順番などつけられたものではない※。

※ここで戦闘に参加していない「戦力」など、得点力不足は攻撃を11枚までふやせばよい、くらいに無意味な話なので無視をする。それは攻撃のための攻撃だからである。

局面局面の戦闘と目的の達成度合い、すなわち、大いに苦労しつつも、日本は半島制圧をかろうじて進められていたことを評価してのものである(ただし、おおむね限界に達していたらしい。加藤清正は粘っていたらしいが、その加藤にしても手詰まりを打破できなかったようである)。決定的だったのはやはり兵站の困難をはじめとする兵の生活の維持で、「風土病らしき流行病」(P105)に浸潤され被害が広がったらしい。そして、民が現地調達に抵抗したということもあったし(蜂起としてゲリラが「増える」(P105)。これはyou tubeで見たが、侵略軍はやがて鎮圧したらしい)、(おそらく、そうでなくとも、地勢上)ゲリラが有効だったのである(you tubeを見ると、実際は、朝鮮の山城は初めてで攻城するのに相当苦戦したらしい。朝鮮によって地の利を活かした有効なゲリラ戦術が展開されたかは知らない。むしろ撃って出たら、日本の戦場で慣れている分思う壺だったとも言え(これは私の意見。城を出ても撃ち取られることが多かった状況はあったようだ。)、城塞に頼るのが有効だったようである)。

蜂起としての「ゲリラ」と将に指揮されて展開するゲリラ戦は区別できよう。

※七尾城を思い出す。要は、逆すり鉢状の山ではなく、尾根の連なりに築城されてあるのが、有名な「登り石垣」や反り返った石垣である(七尾城の「登り石垣」が朝鮮由来か、興味深いところである)。山岳戦でありかつ攻城戦であり、極めて立体的な戦いであったようだ。七尾城で上杉謙信が勝利したのは、籠城の限界から生じた内部崩壊を決定的な原因として、もともとくすぶっていた対立を利用した謀略であった。(特に工業から成る※1)産業基盤に張り付いた近代と違って、そもそも人が、散り散りまた集団で、離反しやすかったのだと思う。

※1 そう考えると、全国の農村から出て来た青年から構成された帝国陸軍で、派閥が形成されるのは集団の常としても―アメリカ軍だってそうだった※2―、派閥による闘争が戦闘まで及ぶのは、近代化の収れん過程と見做せるかどうかである。反対に主流派が、或いは単なる協調にとどまらずに、政府と「一体化」する所以である(。近代国家の構成から言えば当たり前であるが、「軍部」とことさらにいうときの経緯である)。この流れの嚆矢が児玉源太郎内務省への出向である。陸軍大学にしても、「児玉源太郎」を存在せしめた意思が、軍の近代化を推し進める主流派を形成したのであった。
しかし、それが「石原莞爾」という鬼子を図らずも産んでしまった。これは、石原がすごいというよりも、平沼騏一郎による法制度設計の大枠に沿ってひょんな格好で具現化したと考える方が合理的である(軍部からその中身を充実させて行ったのは、田中義一、宇垣一誠である)。石原自身からはどうしても出遅れ感が拭えない。水源を押さえたのは政府乃至主流派で、石原は所詮は支流で遊んでいた格好だったはずが、主流派が構成した流れに乗じた勢いを駆って意趣返ししたのであった(が、もともと主流派は制度が予定した以上には評価しなかったので―良くも悪くも「陸大出」としての評価である。特別に評価されたのは、「実質一番」と言われることもある石原ではなく、一番で卒業した  の方だったようである。―、結局は特に見るべき点もなく放逐されたというのが実情だろうと思う。毒を以て毒を制するかのような烈しい「東條人事」だったとしても、「河合継之助」という「裏を掻いてワンチャンに賭ける」研究をしてそれ以上のことが遂には望めなかった人物に関して、近代的な仕方で永続とした事業を営む組織として、その基本的な評価に誤りはなかったように思う)。

※2 し、もっと言えばアメリカにだって「軍部の暴走」があった。原爆投下に関するトルーマンとの関係である。☞『太平洋戦争通説のウソ』P138「21 原爆投下はトルーマンが主導したというのはウソ」。この論考の評価は置くにしても、事実として見なければならない点はある。


「戦争」と言うと、近代戦乃至総力戦をイメージしやすいので、兵数、兵力、戦力は慎重に使いたいところである。そもそも論として、最初に自然環境ありきで、継戦の経済性であり、最後に統治への影響である。産業基盤に依拠して戦う近代国家と違って、民が離散して(人を支配して成る)統治が荒廃することもあるのだ。近代以前は漠然とした勢力範囲以外がないのであった。

民が自発的に(?明記されておらず、扇動があったのか知らない。)蜂起しただけで「朝鮮軍」と呼べないにしても、一方で朝鮮の統治は続いたのだから、「朝鮮の勝利」と見做した理由もそうである。明と日本は統治が続かなかったのであった。戦争は勝てばよいものでなく、負けてよいわけでなく、適当にやりくりするものなのであった。「勝ち」と「勝利」に意味の違いはないが、敢えて「利」に着目したところである。

日本では、その後、関ケ原の合戦が起きた。

43関ケ原の戦いの勝利により家康は天下を掌握したというのはウソ

『徳川と豊臣が雌雄を決した天下分け目の戦いではなく、豊臣家家臣が反徳川派と反光成派に分かれて争ったととらえる説が、有力視されているのだ』(P191)

その前に、「朝鮮出兵」した内の反三成派から呼び出され、暗殺されそうになったということもあったらしい。豊臣家の天下はその後なお数年続いたらしい。