今日の算数

これは実は深遠な問題で、

  1. 語彙の問題
  2. 幸福の問題

が「算数」の問題に混ざり合あっているんだな。
責めてはいけない。

かつて、「限界効用逓減の法則」をカレーライスで説明された高名な教授がいらっしゃったらしい。1杯目のカレーライスは美味いが、2杯目のカレーライスは美味くない。
すなわち、

  1. 「割合」を「濃さ(薄さ)」に変えてみる
  2. 「割合」を「飽き(美味しさ)」に変えてみる

1に関しては、弟か妹が居たら、カルピスを平等に分けるにはどうすればいいかな?、と言うとかね。遠慮するね。飲みすぎて、飽きたか?とかね。
今ってさ、みんな食い物で苦労しないから。
デコレーションケーキ買ってきても、上に乗ったお菓子をどうするかって悩まないだろうしね。もっと美味しいケーキ食っているかもしれないしね。
身に沁みて、食べものに関して「敗北感」を味わうことがないというね。
昔で言ったら、みんなが「ひとりっ子」みたいなもんだし。そらあ身につかんやろうなぁ。いきなり抽象的すぎるんだよな。
こういうのは、昭和は、抜き差しならない、、、、、、、、社会関係の具体例で身に付けて来たんだよな。それがいいかどうかはわからないけれど(昭和の社会は暴力前提だから、実質「負けない」ことばっかり教えていた。)、具体例には、物証的な方法と、状況説明的な方法の2種類あるんじゃないかね。

 セン(Sen〔2〕)が論文の中で用いた、おそらく自作と思われる次のような架空の対話を紹介しよう。

 ふたりの兄弟が大きいリンゴと小さいリンゴをおやつにもらって話しあっているとしよう。兄はいきなり大きいリンゴの方を取った。

弟「お兄ちゃん。ずるいよ。自分だけ大きい方をとっちゃって!」
兄「どうしてオレがずるいのだ。オマエならどっちをとる?」
弟「ボクなら小さい方をとるな。」
兄「じゃあいいじゃないか。オマエはそこにある小さい方をとっていいようになっているよ。」
弟「・・・・・・。」

PP295-296,選考の根拠の選考,二 選ぶモノと選ぶコト,Ⅶ 多様性の中に調和を,「決め方」の論理

「対象」が「関係」の中で考えられる、社会的なレベルでの、具体例である。
すなわち、弟は「「謙譲の精神」という選考動機を「自己本位」という選考動機より優先して考えて」(P296,〃)、兄を非難しているのである。

『数学は世界を変える』とは、世界観を変えるという認識論ではなく、実際に民主主義を通して世界を変えるということを、アインシュタインや著者が主張しているのである。これはナチスを経験したアインシュタインだからこそだろう。戦後教育で取り上げられた科学主義とも通底する話である。

何が言いたいか。
子どもの中には、抽象的にいきなり考えられる子も居るかもしれない。
一方で、具体的な「物」を通しての方が考えやすい子も居るかもしれないし、具体的な「人」を通しての方が考えやすい子も居るかもしれない。
図を通しての方が考えやすい子が居るかもしれないし、合理的に順々に、或いは感得できるように淳淳と、説明される方がよい子が居るかもしれない。そのときには、感情のフックに引っかかるだけで「わかった」わけではなく「計算できる」だけかもしれないけれど、いずれわかるだろう。