「間違えた」と思う錯覚


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ゆっくり解説シリーズが好きで、途中まで見て気づいた(最後までまだ見ていないが)

 

 

 

さて、導入問題で出題された、95%の人が間違えるという「簡単」な問題も実は、このとおりである。

 

解説では連立方程式で解くのだが、実は、算数の問題だったのだ(小学校  年生程度)。95%の人が間違えるのは、理性に従って「論理的に考える」べきところ、「計算で解いてしまう方が楽」だったからに過ぎないから起こった、「理性の正しさ」と「脳の怠慢癖」の相克だったという。実は(或る意味で)「95%の人も間違えてはいなかった」のである。

こういうことはよくあって、計算に限らない(数学は「計算力がものをいう」学問でもあるので、そういう傾向が表れやすい)

 

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面白い話で納得するところであるが、「ちゃん」と「さん」の使い分けに関して言えば、単に、(発音のコストから)「言いやすさ」でないかと思う。

50音図を考えて、A列音+E列音→「ちゃん」、О列音+A列音+E列音→「さん」のような気がしないではない。「おたけさん」「たけちゃん」である。
「さんちゃん」と言っても「おさんちゃん」とは言わず、「おさんさん」とも言わないが、「おさるさん」とは言う。たまに「おさるちゃん」とも言うが(揺らぎあり)。

突拍子もないこととは思わない。『チコちゃんに叱られる』で、似たようなハナシがなかったか。意味からじゃなく、発音のコストの高低である。
そうだとしたら、意味上は「御」をつけるかどうかの違いになる。

 

この場合においては、場合分けして統計結果を求めることとなるが、大変な苦労を伴う。それよりかは、意味づけして納得する方が、リーズナブルなだけだろうと思う。

人間は楽をすることにかけては苦労を厭わないのだ。

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あまいろは、天色で青色だそうである。灰色の不思議を考えると、いろいろと思い至るところであるが、古代の言葉の不思議は大抵そのような思い付きを寄せ付けないので、その程度にしておく。


これは「疑似問題化」とも関係がありそうで、教師の中には、その知識を問うならいざ知らず、問題(すなわち、答え方)を隠すして符丁にしてしまう例があるが(到達度を測るために、授業中に、問題が成立する符丁の片方を隠してしまう。すなわち、授業中の解説文Aと、テストの問題文Bが備わって初めて、問題の意味がわかるようになっている。一見もっともらしいが、問題文は独立に成立しているべきではないかと不思議に思う。授業を聞かないと、問題文の謂っている内容を解説できないということではない。成立しないのだ。「1+1=」の意味がわからないのではない。「1+」と言われても、困るのである。その符丁の片方を「授業で言った」としても。暗号を複号するには暗号表が要る。その暗号表自身を問題にするか、暗号表を渡して復号させるかである。)、問題文とは、このように、経緯を明らかにすることでもあるのではないだろうか。
さきほどの、分配問題も、問題は、兄が分配することで弟の2倍になるとき、ということであった。これが経緯である。

ならば、鉛筆と消しゴムの問題では、これを自分でおこなわなければならなかったのだ。「答える力」以前に「問う力」を再帰的に問うていたのであった

「ギフテッド」教育を考える時、この視点が欠けているように感じる。
なぜなら、それはおおむね、発達レベルに応じた遊びの中で培われるからだ。

競争の中で、「マリーシア」が培われる。

ここで「知恵」と言われることは、経験による学びもしくは教訓もしくは「アダプション」と言われることである。

難しいのは、「正しいマリーシア」は人格に依存しやすいのである。別の人格と対峙できなければならない。このとき、自己を支配してかつ制御できていなければならない(その制限があって初めて方法的に凌ぐ試みである)。

道徳教育の是非が言われやすいが、方法に至る前に、自己の人格が邪魔をすることがしばしばあるのだ。脳は自然とコストの小さい方を選ぶ癖があるからである。
ただ、それは誰についても言える危険があるに過ぎない。教える側の危険が大きいのであるが、社会から道徳をなくすことはできない。

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を見たときに、「この程度のことで、、、、、、、、騙される奴は」云々と短絡すべきでない。
なぜなら、我々には最後まで、(自然言語の持つそもそもの限界、すわなち不分明さゆえの帰納的な、、、性質から)「問う力」が残されているからである(実際、これは統計結果を得て判断された或る一般的な傾向以上のことを言っていない)。
それに気付かず結果を先取りしたときに初めて「騙されている」のである。
そして、それを支えるのが「のろまな頭脳」なのではなく「落ち着いた人格」であるのが、皮肉である。