総称の問題も興味深い。「誰もが誰かをねたんでいる」という有名な総称文があるが、実は、これには二義性があるという指摘。皆にそれぞれねたむ相手がいるという解釈以外に、皆が共通にある一人をねたむという解釈もあるとする(言語哲学者はむしろこちらを連想するらしい)。
— yhkondo (@yhkondo) 29 oktober 2019
∀P∃Q(P*Q)
は
∀P
↳∃Q
↳(P*Q)
だとして、何をどう"数える"か
ここにはP列とQ列が前提されている。
X{X1,...,Xn}は実は、X{{X1},…{X1,…}}を含んでいることと考えられる。なぜなら、逐一指示できるからだ。一つ一つに対応関係を確認できるとき、
すべてのひとを憎むことも多数の人を憎むことも、自分を憎むことも、誰か一人を憎むことも、それぞれが別の人を憎むことも、含む。
P群のすべての要素について、或る対応関係を、逐一Q群に求められる、というときの関係の記述できようを言っているのに過ぎないのであるから、実はその様態(意味)まで言及していない(ため、"論理(統語)的には"、『二義性の問題』でないのは当然であるー『義』の内容からして)。ここで∀は「逐一指示できるとき、そのひとつひとつについて(もれなく)」であり、∃とは(そのような関係を持つ存在が)「ある」=「ひとつ数えられる」であって、それ以上に、()内ではなく「」内の様態(意味)まで言及するのは、人間には、以下のバイアスがあるからである。
むしろこれは、「ぺア」の言語上の特権性を考えるべき問題である。
また、法学上は、ここから普遍論争に向かう。
すなわち、唯名論/実在論である(「人間」とは、逐一数えられる内容を持つか、それ自体「1個」の存在かー我々は実在論を否定できない)。